太田述正コラム#4790(2011.6.5)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その7)>(2011.8.26公開)
「それでは、伊藤は文明国の具体的内実をどのように韓国側に説明していたのか。伊藤の弁明は、民本主義<(≒民主主義(太田))>、法治主義<(≒法の支配=自由主義)>、漸進主義の三つの要素からなっていると言える。
まず第一に民本主義である。・・・
1907年4月9日<に>・・・「政府は人民を愛することを第一の目的として官吏を愛する工夫を止めさるへからす」<と述べている。>・・・
次に伊藤が主張するのは・・・法治主義である。
1906年・・・3月25日<に>・・・「彼の貪官(たんかん)汚吏の為常に生命財産の危険を免れすとせは国民は一日も其の産業に安んし其の富力の増殖に勉めさるは必然の勢なり」<と述べている。>・・・
伊藤によれば、以上のような施政のあり方は、「世界の状態」なのであり、それに違反する政策を採ることはできない<のだ。>(・・・1906年11月16日・・・)・・・
<かかる>韓国統治の哲学・・・の実践のために彼が採った方法が漸進主義に他ならない。・・・すなわち、・・・「初より大計画を立て損失を招くか如きは不可」として、「当初は小計画を立て漸次に之を発達せしむる」(・・・1906年3月13日・・・)ことを説いているのである。」(302~304)
→伊藤は、韓国において、自由民主主義を漸進的に定着させようと考えていたわけです。(太田)
「教育改革<については、>・・・1906年3月13日・・・「徴兵を実施するには[中略]教育を普及して学問上の素養を作らさるへからず」・・・、「教育を施せは児童は自ら何故に国民は租税を負担すへきかの理由を了解す」・・<と述べているところ、>このように、伊藤は統治の客体としての国民を創造するために教育を利用しようとしたとまずは指摘することができる。・・・
<しかし、他方で、>彼<にとって、>国民<と>は、率先して国家の貢納を負うのみならず、自らの血税の使途について目を光らせている公共性の担い手だった。・・・
1908年12月8日・・・伊藤<が、韓国に関しても>、「自分の見る所にては各地方の人民も旧の如く官吏に対して叩頭平身惟(こ)れ従ふか如き風を脱せんとす」としたうえで、「是れ即ち所謂民権の発達なり」と述べ・・・その結果として、「官吏の悪事を為すものも漸次減少せるか如し」と<していることからも、これを読み取ることができる。>・・・。」(305~306)
→伊藤にとって、日本のみならず韓国においても定着させるべきものは、決して狭義の民本主義、すなわち牧民主義(注4)の域にとどまらず、国民による政治である民主主義を目指すものであったことが、ここからはっきりうかがえますね。(太田)
(注4)「張養浩という元代の人が、地方官に任命され赴任して実際に統治する際の心得を牧民忠告という本の形でまとめ・・・た<ものが>、朝鮮で出版された本の形で日本に伝わ<っ>た。・・・寛永大飢饉・・・の克服にあたって「民は国之本也」という考え方を打ち出した幕閣を構成する譜代大名が、まず牧民忠告に注目し<たところ、>・・・江戸時代も後期になると・・・代官やその手代層が、これらの書物の読者として期待されるようにな<る>。・・・さらには、庄屋の中にも村内をまとめる役目を担っているという意識からこれらの書物を読むような人が<現れ>た・・・。<そして、>注釈書によっては・・・大昔の人間は平等だったのに・・・文明化してから身分の差別が生じたと<か>、・・・宰相も村役人も平等・・・など<と>、平等思想を打ち出しているものがあった・・・。」
http://somali-present.blogspot.com/2008/10/blog-post.html
牧民主義の日本化の過程で、それが民主主義的なものへと変貌を遂げたことは、日本文明には、維新以前から民主主義への親和性があったことを示すものだ。だからこそ、維新の劈頭において、民主主義を志向した五箇条のご誓文が制定されたことに始まり、伊藤による帝国憲法の起草、成立を経て、日本にイギリス流の民主主義が急速に定着するに至った、ということだ。
「まず資金の問題であるが、伊藤は韓国社会から教育関連費を徴収してそれを改革の財源とする方策を明示的に否定した。・・・日本政府からの・・・産業振興<のための>・・・無償借款<の枠内>で<やろうとしたのである。・・・<その結果、>教育改革は限られた財源で出発せざるを得なかった・・・。・・・
<次に>教師<だが、伊藤は>・・・普通教育の教師として渡韓した新任日本人に対して、韓国語の習得を求めるほか、韓国の・・・民情や旧慣に配慮することに事あるごとに言及していた。・・・
<ただし、韓国語はともかくとして、>伊藤がそれを統治の前提として維持し温存していこうと考えていたわけではない。むしろ、それらは長い目で見れば、文明によって暗消されるべきものだったと言える。」(312~315)
→そもそも植民地の産業振興を宗主国が持ち出しでやろうとしたこと自体が欧米の植民地統治ではあまり例を見ない人間主義的植民地統治であったわけですが、教育改革(教育振興)を宗主国が持ち出しでやろうとしたことは、とりわけ画期的なことであったと言えるでしょう。(コラム#4720参照)(太田)
「<この関連で、>伊藤は、プライベートでは、漢学的素養を愛する文人気質の持ち主だった<が、>・・・儒教・・・の「廃棄」を促している。「眼を開きて文明の式に隋ひ国利民福を興さんとする今日に於ては、斯かる有害無益の旧慣は速に之を廃棄する方、寧ろ韓国の為に忠なる所以にあらずや」、と’・・・1906年7月3日)・・・。・・・
<また、>ナショナリズムのような過熱化した国民感情に対して、伊藤の視線は冷ややかなものにならざるを得ない。彼は韓国で次のように呼びかけている。
今日の急務は韓人をして先(まず)衣食に窮するなからしめ、而(しか)る後其の能力を進むるの教育を施ささるへからず。徒に独立を唱へ愛国を叫ふも、遊食惰眠せは国家の為めに何の利する所もなし。(・・・1908年6月17日・・・)」(307~308)
→韓国の文明化の障害になったのが、古からの儒教と新たに興ったナショナリズムという、いずれも非合理な代物であったということです。
ちなみに、維新期の日本には、儒教は原型をとどめないほど日本化していて、それが障害になることはありませんでしたし、ナショナリズムについても、維新期の政府首脳達は同じ日本人であったことから、それが障害になることはありえなかったわけです。(太田)
(続く)
『伊藤博文 知の政治家』を読む(その7)
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