太田述正コラム#4934(2011.8.16)
<孫文の正体(その1)>(2011.11.6公開)
1 始めに
XXXXさんが送ってくれたばかりの資料、なかなか面白いので、さっそく紹介することにしました。
最初にとりあげるのは、田嶋信雄「孫文の中独ソ三国連合」構想と日本 1917~1924年–「連ソ」路線および「大アジア主義」再考–」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学政策文化総合研究所研究叢書6 中央大学出版会 2007年)の第一章)です。
「中国における改革開放政策の進展と国際関係における冷戦体制の終焉は、中独(ソ)関係史研究の史料状況をも劇的に改善し、いままで用いられてこなかった多くの史料へのアクセスが可能となった。」(6頁)と書いてあるだけで、期待感が膨らんだ次第です。
実際、典拠文献として、日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、漢語のものがあげられています。
筆者がこれらをすべて読みこなす能力があるとすれば、大変なものです。
ちなみに、田嶋信雄(1953年~)は、「東京都生まれ。北海道大学法学部卒業、<ドイツの>トリーア<(Trier)>大学およびボン大学留学を経て、・・・北海道大学法学部助手などを経て、現在、成城大学法学部教授」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B6%8B%E4%BF%A1%E9%9B%84
という人物です。
XXXXさん提供の資料のこれまでの紹介は、どちらかと言うと、資料に出てくる一次史料に着目して、それら一次史料を踏まえて、資料(本や論文)の筆者が提示する説には余りとらわれず、私自身の説を打ち出す、というものでした。
しかし、この論文に関しては、筆者は信頼するに足ると判断したので、彼の結論、すなわち、彼の説の紹介を軸とし、それに私のコメントを付す、という、やや、従来とは違う紹介の仕方をしようと思います。
2 田嶋信雄説の骨子
37~38頁に、結論として、こう書いてあります。
一、孫文は、第一次世界大戦への<中国の>参戦問題<(注1)>以来、首尾一貫して対独接近政策を追求した。孫文の<言動>は状況的で<あり、>・・・時と所に応じて<変化した。>・・・しかしながら、孫文のドイツに対する態度は、・・・一貫しており、ドイツの工業・軍事・科学技術・学問などへの高い評価に基づく援助を期待していた。・・・
二、孫文の親独政策は親ソ政策と結びつき、「中独ソ三国連合」構想として展開された<(注2)>。・・・しかもそこには、・・・独ソの支援を受け、ソヴィエト領ないしモンゴルを起点とした「北伐」を実行するという地政学的な考慮<(注3)>も働いていた。
三、孫文の「連ソ」路線<(注4)は、未完の「中独ソ三国連合」の一部として実現された。・・・
四、孫文の「大アジア主義」は、中独ソ三国を中核とする被抑圧民族の連帯を目指した。・・・<すなわち、>ユーラシア<主義>的な次元を有していた・・・。孫文は日本にこの反帝国主義的・・・<反>英米アングロサクソン二大国的・・・構想への参加を求めたが、日本は・・・これを拒否した<(注5)>・・・。
五、中独ソ<及び日本>の連合構想は、中国にも、ソ連にも、ドイツにも、日本にも存在した。<(注6)>
(注1)「<北京政府国務総理の>段祺瑞<(コラム#4502、4520、4528、4724)>は、<1917年>8月14日、・・・ドイツに対する宣戦布告に踏み切った・・・。この対独宣戦布告は中国の分裂を加速する一因となった。8月27日、反段祺瑞派の国会議員130余名は広東で非常国会を開催し、9月10日には孫文を大元帥とする広東軍政府が組織されたのである。これ以降中国で・・・二重権力状況<が>・・・続くことにな<った。>・・・ただし、3日後の9月13日、孫文と広東政府は、国際情勢および段祺瑞政権からの圧力が強まる中でドイツに対し形式上の宣戦布告を行わざるを得なかった。」(12頁)
(注2)「1917年11月、ロシアでレーニン・・・の率いるボリシェヴィキ革命が成功し、国際情勢は根本的に変動することとなった。翌18年3月3日にはブレスト=リトフスクで独露講和条約が締結され、ドイツとソヴィエト・ロシアの間での講和が成立すとともに、ヨーロッパの東部地域はほぼドイツの支配下に置かれることとなった。反イギリス・親ドイツ戦略をとる孫文にとっては絶好の機会が到来したのである。1918年・・・12月1日に・・・「孫の親しい友人」であり「南方派におけるドイツの信頼しうる情報提供者」でもあった曹亜伯・・・はベルリン・・・<の>ドイツ外務省を訪れ、・・・「孫文の建議」を提出した・・・。<それは、>中国(広東政府)、ドイツおよびソヴィエト・ロシア三国の同盟関係の形成の提案<だった。>・・・
この間、1918年11月9日にはドイツでも革命が起こり、同月11日にドイツは連合国との間で休戦協定を締結するのやむなきに至っていた。ソヴィエト・ロシアを通じたドイツ軍の「東漸」と中独ソ三国の連合形成にかけた孫文の期待は、ここにひとたび潰え去ったのである。」(9、
(注3)「1921年11月<の時点で、>・・・ソビエト・ロシア・・・首脳は、モンゴルは地勢上、戦争となれば必ず帝国主義国<(日本(太田))>に占領され、反ソ軍事基地とされるであろう<ことから、>・・・外モンゴルの中国からの独立を<確保しなければならないとの考えを>・・・外モンゴルのスフバートルを長とする代表団<に伝えている。>・・・
<他方、>孫文<は>1922年末に<駐中国ソヴィエト代表の>ヨッフェ<(コラム#228、4498)>に・・・中国外蒙地域に全中国統一の軍事基地を建設すること・・・<を>提案し<てい>た。・・・<しかし、>ソ連は外モンゴルはすでに中国から独立した別個の国であり、中国領土ではないと考えており、国民党の外モンゴル干渉を許すはずはなかった。トロツキーは蒋介石にこう明言した。「国民党はモンゴルではなく、自国の領土で軍事行動を始めなければならない」。・・・
<孫文は、結局、このソビエト<(ママ。以下同じ)>の要求を呑む。>
1923年初めから24年秋・・・、コミンテルン<は、>孫文・国民党を「全力で支持」し、これを「唯一の盟友」とした・・・。・・・ここで無視できない重要な要因は、ヨッフェ等のソビエト代表との数次の会談において、孫文は外モンゴル及び中東鉄道問題におけるソビエトの基本的観点を明確に支持していたことであ<る。(ちなみに、>この両問題こそがソ連政府と中国北京政府の国交正常化交渉における主要な障害であった<)>・・・。」(中央大学人文科学研究所編『研究叢書21 民国前期中国と東アジアの変動』(中央大学出版部 1999年 の第4章)156~160頁)
(続く)
孫文の正体(その1)
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