太田述正コラム#5006(2011.9.21)
<戦間期日本人の対独意識(その10)>(2011.12.12公開)
「以上の如く高揚していた親独反英機運に冷水をかけたのが、8月23日にモスクワで締結された独ソ不可侵条約であった。・・・この条約の成立は世界中を驚倒させたが、ノモンハンでソ連と対峙し、国内では防共強化論議を続けていた日本にはとりわけ強い衝撃を与え、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」云々との文句を残して総辞職することとなった。・・・
独ソ不可侵条約が成立すると、新聞はこれを大々的に報じた。各紙の社説を見ると、条約成立直後の8月23日の社説では、三紙とも条約が欧州政局に与える影響を「恰もそれを幾月前から予見してゐたやうな書きぶり」で説明するのみであり、それが日本にもたらす影響については口を閉ざしている。翌24日以降にようやく、独ソ条約が日本にもたらす影響について述べ、ドイツを非難する。たとえば『東朝』は、「防共巨帝の蹂躙」と題した社説を掲げ、防共協定の精神はほとんど空文になったとして、「ドイツの深甚なる反省」を促している。
この一日の遅れは何を意味するのか。・・・おそらく、狼狽した新聞各社は、日本政府の新しい外交方針が明確になるまで判断を留保したのであろう。・・・
また各紙は、それまでの親独傾向の行き過ぎを批判する言説を、投書欄に掲載した。たとえば『東朝』の投書欄には、次のような内容が掲載された。国民は世界情勢の真実を知らされていなかった。そのため防共の精神が「信仰化」してしまい、ドイツへの批判精神が失われてしまった。ドイツのやることについてはすべて共感をもって賛嘆しなければならなかった。正しい国際情勢の認識と批判ぐらいの、最小限の言論の自由は許されるべきではないか、と。対独批判を許さなかった政府の言論統制に対する批判であった。
同じような批判は、同日の『東日』投書欄にも掲載されていた。今回のことは国民の一部では、かねてからドイツのやりそうなことと目星を付けていた者もないではなかったのに、なぜかドイツに対する批判は、国民は語ることさえ禁じられていた。次に来る政治の責任者は、今回のことが「全く盲目的親独主義の当然の帰結」であったことを思い、再びその愚に陥らないよう注意すべきである、と。
これらは、従前までの政府の親独路線とそれに伴う言論統制を、各紙が読者からの投書を利用して批判したものと見るべきであろう。もっとも<前にも>明らかにしたとおり、各紙は自ら率先して親独主義を煽っていたのだから、政府のみを批判するのは虫が良すぎると言わざるを得ない。各紙は自分達が親独機運の高揚に大きな役割を果たし、結果的に読者をミスリードしてしまったことに対して、自己批判することはなかったのである。」(67~69、78~79頁)
→一体、政府の言論統制方針が具体的にどの程度各紙の読者に開示されていたか不明であり、仮に完全に開示されていたとしても、その枠内で各紙がマヌーバーする余地はかなりあった、と思われることから、この種の投書は、各紙の自作自演ではないか、と疑ってみる必要がありそうです。
いずれにせよ、岩村自身が書いているように、不勉強なくせに、販売部数を伸ばすことだけのためにやらせ的に親独ムードを盛り上げたことを自己批判すべきは各紙であり、当時のそのような体質は、現在においても受け継がれている、と言ってよいでしょう。(太田)
「<1939年>9月に入って・・・第二次世界大戦(当初、日本では欧州大戦と呼ばれた)が勃発するに至った。・・・
東亜への介入者として否定的イメージが定着していたイギリスと、日本を裏切ったドイツの両国が戦争に突入したことは、独ソ条約で沈んでいたわが国の朝野にとって明るい出来事であり、「神風」「天佑」などと言われて歓迎された。各紙夕刊の短評欄では、「現地解決不拡大方針なんか、こちらで失敗ずみだ、トコトンまでおやりなされ/ゆるゆる見物できるのも独ソ協定のおかげと篤くお礼を申上げておく」とか、「欧州大戦よ、荒れなば荒れよ、我等はゆるゆる事変処理を完了せん」など、大戦勃発を歓迎し傍観をきめこむ、率直な見解がみられた。・・・
<また、>情勢はドイツ不利という認識で、各紙とも基本的に一致していたのである。
その後、ドイツとの秘密条約に基づき、ソ連もポーランドに侵入した。独ソに挟撃されたポーランドはひとたまりもなく敗北し、9月28日、独ソ間で分割されるに至った。これを報じる新聞は、ソ連に警戒を示すと共に、ポーランドに同情を寄せた。『東朝』は「同国の運命に同情」すると共に、「再び復興の日のあらん事を望む」としている。それまではドイツに飲み込まれたオーストリアやチェコへの同情がほとんど無かったことと比べると、もちろんソ連が絡んでいるという違いはあるが、大きな変化であるといえよう。・・・
『東朝』は、北野吉内<(注30)>特派員(編集局次長)がチェンバレン英国首相に単独インタビューを行った。ここで北野は、「この際英国が日本に対し何らかの友好的ゼスチュアを試みること」、「かかる友好的ゼスチュアが日英関係の改善に寄与するところ多かるべきこと」をチェンバレンに進言した。チェンバレンが「どんなゼスチュアか」と問うと、北野は「日本当局が屡示唆せる『英国の協力』につき所見を簡単に開陳」している。・・・『新聞之新聞』の報道によれば、さすがにこの会見記は一部で物議を醸し、また社内でも問題視されたという。・・・
(注30)きたのきちない。1892~1956年。東京外国語学校(現東京外大)卒。4年間のニューヨーク特派員生活を終えて1929年に帰国するに際し、ドイツの飛行船ツェッペリン号に搭乗して報道にあたった。1943年編集副総長。
http://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%90%89%E5%86%85
ドイツの戦争相手であるイギリスについては、どのように報じられていたのだろうか。独貨拿捕令こそ中立国への侵害として強く批判されたものの、天津租界封鎖問題の頃のような極端な反英報道は控えられていた。しかし、やがて反英的傾向が紙面に復活してくるのである。その契機となったのが、1940年1月の浅間丸事件<(コラム#4392、4544)>であった。
1月21日、米国から帰航中だった日本郵船の浅間丸が、千葉県野島崎沖でイギリスの巡洋艦により臨検され、ドイツ人船客21人が兵役関係嫌疑者であるとして連行された。日本政府は現役軍人のみが連行可能であるとしてイギリスに強く抗議し、船客の引き渡しを要求した。結局、今後は交戦国の軍人を乗船させないこととし、9人のドイツ人が兵役に無関係として日本政府に引渡され一応の落着をみた。
この事件は、傲慢なイギリスにより日本の面子が潰されたものとみなされ、国民の感情的反発を招いた。新聞各紙は連日扇情的な見出しでイギリスの「傲岸無礼な態度」を批判し、反英世論を煽った。・・・
『東日』は、「・・・再発防止は無敵海軍が実力でやれ」などと興奮していた。そのほか、『東日』では徳富蘇峰が、「英国軍艦員の措置は、全く海賊同様の沙汰であると公言するも、猶ほ足らざる心地がする」とし、外交当局がこの問題をうやむやにしないように監視しなければならない、と主張していた。・・・
1940年3月、防共親善協会(・・・日独伊親善協会が一時的に改名した団体)が全国小中学校の生徒たちに、「ドイツ側と英仏側どちらに勝たせたいか」アンケートを行った。その結果は、ドイツ側に勝たせたいというのが7割、英仏側が2割、中立が1割と「ドイツファンが圧倒的」であったという。・・・ソ連と組んだドイツに対する反感が薄れ、むしろ英仏側への反感が高まりつつあることを証明する一事例として、参考にはなるだろう。実際、ドイツ大使館が2月23日に本国へ送った電報では、日本政府が欧州戦争から距離を置こうとしているにもかかわらず国民の一般的感情は親独反英である、と報告がされていたのである。
膠着していた欧州戦線は、1940年の春から動き始めた。4月にはドイツ軍がデンマーク、ノルウェーに電撃的に侵入<(コラム#4830)>し、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵入した。オランダ国王と政府はロンドンに逃れ、ベルギー国王は降伏した。続いてドイツ軍は、難攻不落と呼ばれたマジノ線を迂回作戦により突破した。追いつめられたイギリス軍は、ダンケルクから英国本土へ撤退した<(コラム#1894、3497、3499、3511、3968、3970、4276、4290、4667、4817)>。こうした情勢をみて、イタリアも6月10日に参戦するに至った。
これらの動きは連日トップ記事で、独軍の進路を示す矢印入りの地図とともに、大々的に報じられた。・・・
1938年頃の親独機運高揚期には、ドイツの「強さ」の秘訣として社会制度やドイツ人の健全な肉体、奉仕の精神などが強調されていた。しかしこの時期においては、もっぱら科学技術力が強調されているのである。それは、戦時下のもと、精神主義が強調されすぎている日本社会への批判という側面もあったのかもしれない。
なお、ドイツの科学技術について詳しい記事を書くためには、ドイツ側から資料的協力を得ることが必要であった。・・・鈴木東民(この時期は論説委員)・・・によれば、「各新聞の予算には独大使館員と新聞関係者に対する接待費や賄賂のために莫大な金額が計上され」ていたという。大戦勃発以来、英独両大使館はそれぞれ熱心な宣伝戦を行っていたが、日本のジャーナリズムはそれを警戒するどころか、その一方に自ら接近して資料提供を求め、(鈴木の証言が正しければ)接待行為までも行っていたのである。ドイツのプロパガンダに利用されたと言わざるを得ない。
また、軍人にドイツ軍の強さを解説させる記事が社会面に頻出するのも、このころの特徴である。」(79~82、84~87頁)
→『東朝』の反独的論調と『東日』の親独的論調の違いですが、『東朝』の主筆を長く務めた緒方竹虎が(岩村の指摘によれば)米内光政と親しかったことや、緒方の戦後の吉田茂への入れ込み具合から見て、『東朝』が親帝国海軍・親外務省であったために反独的論調を打ち出したのに対し、『東朝』のライバルであった『東日』は、営業政策上、『東朝』のそれとニュアンス的に異なった論調を打ち出すことによって差別化を図ったからだ、と私は想像しているのですが、どんなものでしょうか。
仮にそうだとすれば、ミスリードするほど世論に迎合することを基本としつつ、販売政策上打ち出さねばならなかったニュアンスの違いは、ただ単に、人脈への配慮や他社との競争上の観点からから生じた、という当時の・・恐らく現在もそうでしょうが・・日本の大新聞のレベルは、現在の週刊新潮や週刊文春並みのイエローペーパーである、と言わざるをえません。(太田)
(続く)
戦間期日本人の対独意識(その10)
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