太田述正コラム#5208(2011.12.31)
<等身大のジョージ・ケナン>(2012.4.17公開)
1 始めに
ジョン・ルイス・ガッディス(John Lewis Gaddis)の新著 ‘George F. Kennan: An American Life’ (コラム#5193)の詳しい書評が出た
http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2011/1229/George-F.-Kennan-An-American-Life
(12月30日アクセス)ので、そこからうかがうことができる、等身大のジョージ・ケナン像を紹介し、私のコメントを付そうと思います。
2 等身大のジョージ・ケナン
(1)典型的米国人たるケナン
ケナンは米国人離れしたリアリストとして神格化されてきたきらいがありますが、ケナン本人は、人種主義者であったという点一つとっても、いたって典型的な米国人であったことを、我々は押さえておく必要があります。
「・・・ケナンの見解は、今日の視点から見れば、反ユダヤ主義とされてもやむをえないものだった。・・・」
当然、ケナンは、黒人はもちろん、日本人を含む有色人種への差別意識についても米国人一般と共有していた、と思ってよいでしょう。
(2)米国への嫌悪感・・総論
しかし、戦前から戦中にかけて、米国が、赤露のおぞましさについて無知蒙昧であったため、赤露について最も正しい認識を持ち、最も正しい戦略を実施していたところの有色人種国たる日本を、言いがかりをつけてその背後から襲い、その結果、まんまと赤露に東アジアと中東欧を献上してしまったことについて、赤露の専門家たるケナンが、日本や東アジア、更には中東欧の人々に対する罪悪感に苛まれたであろうことは想像に難くありません。
その彼は、戦後、日本の戦前の対赤露政策を黙って剽窃し、米国政府に売り込むことによって、米国の日本化された対赤露戦略の構築に成功するわけです。
日本化された対赤露政策とは、対赤露抑止政策と赤露近接諸国への(まずはガバナンスの確立、次いで自由民主主義化、とセットになった)経済支援政策です。
(日本によるその植民地や保護国の経営が財政的持ち出しの形で行われたことを想起してください。)
対赤露抑止政策については、これまで何度も触れているところですが、後者についても忘れてはなりますまい。
すなわち、「・・・ケナン<は>第二次世界大戦後の「マーシャル・プラン」の設計者(architect)の一人としての役割<も果たした。>・・・」のです。
さて、東アジアや中東欧の人々に赤露の下で塗炭の苦しみを味わわせることとなった愚行を演じた挙句、有色人種国たる日本より約3分の1世紀も遅れて、その対赤露戦略をコピーする羽目になった米国に対し、ケナンが嫌悪感を抱いたのは当然でしょう。
しかし、その嫌悪感をストレートに表明するわけにもいかないことから、ケナンは、以下のように若干屈折した形でその思いを総論的に表明した、というのが私の見立てです。
「「・・・私は、我が国の政治(political life)の荒っぽさと混乱(tumble)が大嫌いだ(hate)。…私は民主主義が大嫌いだ。私は新聞が大嫌いだ。…私は「民衆(peepul)」が大嫌いだ。私ははっきり反米(un-American)になった。」
このように、彼は、放逸な資本主義がどんな風に地域社会を掘り崩し環境を劣化させたか、そして、いかに政治が私的利益の圧力に屈したか、を軽蔑した。
これが、彼の、民主主義的諸制度の健全さと耐久性に対する「衝撃的なほどの信頼の欠如」によって一層募らされていた。・・・」
(3)米国への嫌悪感・・各論
このようなケナンの米国への嫌悪感を、彼は、各論的に、次のような形で、間歇的に(、ただし、やはり屈折的に、)噴出させることになります。
「1965年にリンドン・ジョンソンの<(ケネディ暗殺後の短期間の大統領就任を経ての)>4年任期の大統領職が始まった頃、米国のベトナムへの関与は深化しつつあったが、ケナンのそれに対する不安な思いは募りつつあった。
ケネディ大統領の時代には、ケナンは、東南アジアにおける共産主義の浸透に係るいわゆる「ドミノ理論」を支持していた。
しかし、1965年3月には、彼は「我が国の人々が東南アジアでやっていることに対する」苦悶の念を表明していた。
「彼ら[ジョンソン政権]は正気を失っているように自分には思える」と。
友人・・・への手紙の中で、ケナンは米国の愚行について、より暗澹たる見方を示した。
とりわけ、<同政権は>中ソ間の不協和音に付け入ることの重要性を顧慮していないとし、米国政府が「東南アジアに係る<政策の>選択<を誤っている>だけでなく、共産世界全般に係る我々のアプローチにおいて、ほとんどあらゆる柔軟性」を失ってしまっているのではないかとの恐れを抱いている、と<(注)>。・・・
(注)高坂正堯は、1979年に次のように書いている。「吉田さんの先見性ということでよく例に挙げられる<、彼の>中ソ対立の予言・・・は、吉田さんがイデオロギーなどというものをもともとそれほど信用していないから可能だったんでしょうね。・・・
しかも、吉田さんは中ソ対立だけでなく「ソ連はああいうハードな共産主義だが、長い間ルーズな政治体制に慣れてきた中国はもっとルーズな共産主義になるだろう」ということも言っていますね。その予見は一時、まったく逆になったように見えましたが、最近の中国の大きな変化を見ますと、ちょっと長い目で見ればやはり的中していたのではないかという気がします。
そして首相を辞めた後ですが「だから西側陣営は中国を国際社会の中に引き入れなければいけない」ということを、テレビ・インタビューでドゴールにも言っていますね。」
http://ameblo.jp/3291038150/entry-10869702508.html
イデオロギーの過度の重視に基づきドミノ理論を硬直的に信奉していたジョンソンの愚かさは、「イデオロギーなどというものを・・・それほど信用していな」かった結果、まぐれ当たりで、中ソ対立を「予見」したり中共の改革・解放政策を予見したりした吉田の愚かさ、といい勝負であると言ってよかろう。
<また、>ジミー・カーターが大統領に当選する直前の1976年9月、ケナンは、議論を引き起こすこととなる、33頁にもなるインタビューを、米エンカウンター(Encounter)誌上で行った。・・・
まず、彼は、産業化、都市化、商業主義化、世俗化、そして環境劣化によって、米国は、「悲劇的である、或いは規模において巨大である、としか言いようのない失敗に陥るべく運命づけられている」と語った。
そして、これらの諸問題により、米国の外交政策は規模縮小化が避けられないであろうとし、あたかも彼は自分自身を孤立主義者であるかのように人の目に映らせた。
エンカウンター誌は、「そんなこと<(=米国外交の規模縮小化)>をしたら、欧州の諸同盟国をソ連の手に委ねてしまうことになりはしないか」と問い返した。
ケナンは、これに対し、米国の庇護の下で余りにも自堕落になってしまったこれら諸国は、そういう羽目に陥っても致し方ないのではないか、と答えた。
まことに注目すべきことに、ケナンは、核戦争の環境的かつ人口的帰結と比較すれば、ソ連による西欧の支配など「取るに足らない大災厄」に過ぎない、と主張した。
次いでケナンは、核戦争から復興する方策などないのだから、米国は、必要であれば、一方的に核兵器を廃棄することを追求すべきだ、と意表を突く示唆を行った。・・・」
(4)東アジアや中東欧、就中日本に対する贖罪
そんなケナンが、いわば米国の罪を一身に背負ったつもりになって、東アジア諸国や中東欧諸国、就中日本に対する贖罪意識に基づく言動を行ったとしても、決して不思議ではありますまい。
以下のようなケナンの言動は、そのようなものとして、我々は理解すべきではないでしょうか。
「1948年に、ケナンは、日本は、彼の<赤露>封じ込め戦略の東アジア版(component)の「碇(anchor)」である、と主張した。
しかし、これを実現するにあたっての主要な障害の一つは、日本の連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー大将だった。
<このケナンの伝記の著者である>ガッディスは、面白そうに、マッカーサーの「将軍のごとき引き籠り姿勢(remoteness)」が、行きつ戻りつしつつ(alternately)、彼の、欧州及びソ連に対する関心の欠如や無知、及び、米国政府に全般的に委ねる(defer)姿勢、を一層際立たせることとなった、と記している。
ケナンは、マッカーサーについて、彼が、「日本の社会を…共産主義者による乗っ取りに対して脆弱にする目的で企画されたところの」諸政策を<日本で>確立することによって、<東アジアにおける赤露封じ込め戦略の>「成功に対する一つの主要な障害」になっている、と見なしていた。
ケナンはかねてより、「<マッカーサー>大将は鎖でつなぐことが必要な(tethering)普遍主義者(universalist)である」と見ていたところ、マッカーサー体制の秘密主義に接したケナンは、これに加えて、まるで「疑い深い外国政府」と交渉しているかのような感覚を覚えたものだ。
ケナンは、<日本の>占領を掌る国際機関である極東委員会・・都合が悪いことにそれにはソ連が入っていた・・の権限を廃止できないまでも縮小し、マッカーサーに「取りし切らせる(remain in charge)」ことを示唆することによって、<逆説的に>マッカーサー<の力>を削ぐ(diffuse)ことに成功した。
やがて、ケナンによって推奨されたところの、(マッカーサーの権威が<この方向転換の>多くを支えることとなる)「逆コース(Reverse Course)」として知られる、<欧州に対する>マーシャルプランに類似した<日本における>一連の諸改革<が実行に移された。>・・・」
ケナンは、マッカーサーを、赤露が影響力を行使できた極東委員会の力を削ぐことで赤露の影響下から解放するとともに、GHQ内の赤露シンパを抑え込むためにマッカーサーの権威を利用することで、占領下の日本をして、封じ込め戦略たる日本の戦前の赤露抑止戦略へと逆コースをとらせることに成功した、ということです。
なお、マッカーサーが、このケナンの戦略、つまりは日本の戦前の赤露抑止戦略の正しさを真に理解するには、朝鮮戦争の勃発を待たなければならなかった、と私は見ています。
3 終わりに
私のこういう見方も踏まえた、本格的なジョージ・ケナン論を書いてくれる、日本の学者が一日も早く現れることを、私は願っています。
等身大のジョージ・ケナン
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