太田述正コラム#5290(2012.2.9)
<ロジャー・ウィリアムズ(その2)>(2012.5.25公開)
 (3)プリマス及びマサチューセッツ植民地時代
 「・・・ウィリアムズは、プリマス(Plymouth)植民地の入植地群を(時に強制されて)回り、自分の信条を純化し、説教した。
 その結果、彼の同僚たるピューリタン達は、1635年に、「彼の身の上に何が起こるかを知りながら」彼をイギリスに送り返す準備をした。
 ウィリアムズは森に逃げ込み、<インディアンの>ナラガンセット(Narragansett)族から土地を買い、・・植民する土地のために、ピューリタンが原住民にカネを支払うというのは、<彼の>もう一つのとんでもない信条というやつだった。・・イギリスによって主張されていた領土の外にプロヴィデンス植民地を創設した。
 やがて、プロヴィデンス植民地はイギリス国王によって特許状(charter)が与えられた。
 その政体は、植民者達自身の投票によって諸決定が行われるところの、民主主義的なものだった。・・・」(A)
 「ウィリアムズ一家は、プリマス植民地に、次いでマサチューセッツ植民地に入植したが、彼らは、後者でも、植民地当局の宸襟を悩ませた。
 1636年冬に、役人達が彼を逮捕すべく彼の家に到着した時、既に彼はそこを去っていた。・・・」(B)
 「・・・法学者のエドワード・コークは、ウィリアムズの若き日の庇護者だった。
 詩人のジョン・ミルトン(John Milton)<(注5)(コラム#1008)>は、その後の友人だった。
 (注5)1608~74年。イギリスの詩人で論客にして共和国時代の官僚。ケンブリッジ大学士・修士。叙事詩『失楽園(Paradise Lost)』で有名。政治論文『アレオパジティカ(Areopagitica)』 で言論と報道の自由を情熱的に擁護した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
 彼の批判者達でさえ、彼が魅力的な人物であると思った。
 プリマスの総督は、彼のことを「私の知っている中で最も気持ちの良い(sweetest)人物」であると形容した。
 <上述したように、>ウィリアムズが<二度にわたって>逮捕状が出たのに逃亡できたことはイミシンだ。
 これは、彼に同情した人が彼に情報を与えたからであることは明白だ。
 それでも、ウィリアムズは他人の感情を害する言動を繰り返した。
 「私は安全に眠ることを望んでいない」と、彼はマサチューセッツ植民地総督のジョン・ウィンスロップに警告を発していた。
 というのも、彼は、自分自身、いわゆるピューリタン達よりもよりピュアである存在であることを完全に自覚していたからだ。
 彼は、植民地の民間当局は、十戒中の、宗教に係る「第一の石板(The First Table)」<(注6)>に関することを規制することはできない、と述べた。
 (注6)旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、エジプト出発の後にモーセが神からシナイ山で十戒を授かったところ、十戒は、二枚の石板(table)に書かれているとされる。
 カトリックとルター派は、唯一神、神の名をみだりに唱えることの禁止、安息日の遵守、の三つが第一の石板に書かれていたとし、正教会とプロテスタントは、唯一神、偶像崇拝の禁止、神の名をみだりに唱えることの禁止、安息日の遵守、の四つが第一の石板に書かれていたとする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
http://christiananswers.net/dictionary/commandmentstheten.html
 植民地当局は、姦淫したとして誰かを起訴することはできるが、偶像をつくったり崇拝したりしたとして誰かを起訴することはできない、というのだ。
 次いで、ウィリアムズは、マサチューセッツ植民地への忠誠の宣誓を行うことを拒否した。
 世俗的(worldly)諸目的のために神の名にかけて誓うなどということは、それが何であれ、腐敗以外の何物でもない、というのがその理由だった。・・・」(B)
 (4)プロヴィデンス植民地時代
 「・・・ウィリアムズは、雪と厳しい寒さの中を、陸路、出発した。
 「今でもその時のことを肌で感じる」と彼はずっと後になって懐旧している。
 彼が生き延びられたのは助けがあったからだ。
 「ワタリガラス達が荒野の中で私に給餌してくれた」と彼は、自分を鳥が運んできた食片群で命を支えたところの、聖書中の預言者達に準えた。
 もっとも、彼の「ワタリガラス達」はインディアンだった。
 彼らの支援のおかげで、彼は湾の北部側に着き、そこの原住民達の名前をとってその地をナラガンセット(Narragansett)と名付けた。
 現地で、ウィリアムズは、原住民の持ち主達から土地を購入し、迫害からの逃走に対して彼や他のキリスト教徒達に与えられた聖なる支援を称えるために、彼がプロヴィデンスと呼んだ入植地を樹立した。・・・」(B)
 
 「・・・マサチューセッツ植民地の当局は、ウィリアムズ逮捕に失敗したことに非常に腹を立てていたので、彼らは彼の新しい入植地を抹殺しようとした。
 そこで、彼は、イギリスに戻り、自分自身の・・「教会の園と世界の荒野とを分離する垣根ないし壁」を伴うという・・条件で彼の植民地を守るための特許状を得ようとした。 各種刊行物の中で、彼は、個人の良心は、迫害されることはもとより、支配(governed)されることがあってはならないし、<そんなことはそもそも>不可能である、と主張した。
 もし神が罪の究極の処罰者であると言うのなら、人間が彼の権威を行使しようとすることは不敬である、と。
 そして、それは「イエス・キリストのために人の喉を切り裂くなどということは、…イエスの本性に直接背くものだ」と。・・・」(B)
(続く)