太田述正コラム#5476(2012.5.12)
<映画評論32:マンデラの名もなき看守(その1)>(2012.8.27公開)
1 始めに
 TVでたまたま鑑賞した、『マンデラの名もなき看守(Goodbye Bafana)』の映画評論をお送りします。
2 映画の物語の背景
 このところ、私め、日英ウィキペディア・サーフィンに時を忘れることが多いのですが、このやり方でもって、ネルソン・マンデラ及びその周辺の史実について、最初にまずまとめておきましょう。
 ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela。1918年~)は、南アフリカの東ケープ州のトランスカイ(Transkei)地区に君臨してきたテンブ(Thembu)王朝の分家に属し、曽祖父は王様でした。
 マンデラの父親は、ある町の首長をしていたところ、植民地当局のご機嫌を損ね、その地位から追放されるのですが、王族の枢密院の議員の地位にはとどまります。
 母親は、父親の4人の妻のうちの1人でした。
 ネルソンという英語名は、彼の通ったイギリス系学校の先生がつけたものです。
 最初に入ったヨハネスブルグのフォート・ヘアー(Fort Hare)大学で、オリバー・タンボ(Oliver Tambo)(後出)と親友となるも、大学当局ににらまれて退学し、法律事務所で働きながら南アフリカ大学の学士号を通信教育で取得します。
 (マンデラは、入獄中にロンドン大学の通信講座(External Programme)で法学の勉強を続けます。)
A:http://en.wikipedia.org/wiki/Nelson_Mandela
 その後、やはりヨハネスブルグの「ウィトワーテルスランド大学<(公立)
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_the_Witwatersrand >
法学部を卒業。在学中の1944年にアフリカ民族会議(ANC<=African National Congress>)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。
 1952年8月にヨハネスブルグにてオリバー・タンボと共に弁護士事務所を開業する。その年の12月にANC副議長就任。1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪<で>終身刑となりロベン島に収監される。1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。・・・
 1989年12月に当時の大統領フレデリック・デクラークと会談。1990年2月11日に釈放される。釈放後、ANC副議長に就任する。・・・1991年、ANC議長に就任。・・・1993年12月10日にデクラークとともにノーベル平和賞受賞。
 1994年4月に南ア史上初の全人種参加選挙が実施された。ANCは勝利し、ネルソンは大統領に就任した。暫定憲法の権力分与条項に基づき国民党、インカタ自由党と連立政権をたて、国民統合政府を樹立した。・・・1997年12月のANC党大会でネルソンは、議長の座を副大統領のターボ・ムベキに譲る。<そして、>1999年<に>・・・行われた総選挙を機に政治の世界から引退した。」
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9
 さて、「・・・<(ANC)>は、成立の1912年から1960年2月の非合法化まで、非暴力主義に徹していた」(C)ところ、マンデラ自身、ガンディーから影響を受けていたこともあり、この主義を踏襲していましたが、「1960年3月21日に起きた<白人による黒人虐殺事件である>シャープビル虐殺事件<で>69人が死亡し180人以上が負傷する事件が起こる<わ>、<この事件に怒る黒人達による>抗議活動を抑えるため、3月30日に南アフリカ政府は非常事態宣言を行い、今まで非暴力路線を貫いていたアフリカ民族会議(ANC)を非合法化する<わ、>」ということがあり、マンデラは、非暴力主義でアパルトヘイトに対する戦いにおいて成果を収めることはできないと悟り、最後の手段として、ANCによる武装闘争を開始します。
 こうして、「マンデラ<は>、軍事組織『ウムコントウェシスウェ』を組織<は>した<わけですが>、人命を極力失わないような工場・発電所爆破を作戦の中心にすえていたといわれてい」(C)ます。
 ところが、米CIAが、その居所を突き止めて南ア当局に情報を与えたことで逮捕されたマンデラが投獄された後、ANCによる武装闘争はエスカレートして行き、白人の一般住民の死傷者が続出するようになります。
 例えば、《1983年5月2日の首都プレトリアでの》チャーチ通り爆弾事件(Church Street bomb)では、南ア空軍本部を狙ったものでしたが、多数の一般市民を巻き込み、総計19人が死亡し217人が負傷しています。(予定より10分早く爆発したため、ANCの工作員2名も死亡している。)(A)
http://en.wikipedia.org/wiki/Church_Street_bombing (《》内)
 しかし、国連決議に基づく経済制裁とこの武装闘争が両両あいまってこそ、マンデラは釈放され、アパルトヘイト体制は打倒されることになるのです。
 これは、ガンディーの非暴力主義なるものの限界が明確に露呈した典型的事例の一つである、と言えるのではないでしょうか。
 もう一つ興味深いのは、マンデラの3回の結婚です。
 それは、「・・・1944年に最初の結婚。1957年、ウィニーと2度目の結婚。しかし1992年4月13日、ウィニー夫人との離婚を表明し、4年後の1996年3月19日にウィニーとの離婚が成立。1998年7月18日にモザンビークの初代大統領で飛行機事故で亡くなったサモラ・マシェルの未亡人、グラサ・マシェル夫人と3度目の結婚・・・」(B)という経緯を辿るのです。
 {1944年の}1回目の結婚相手については、その名前しか情報が得られません。
 マンデラが成人になるかならない時点で、(父親が早くなくなっていたことから、)後見人によって決められた相手であり、マンデラはこれに反発したようですが、それでも、彼女との間に4人の子をなしています。(A、D)
 1957年の2回目の結婚は、離婚した年に行われており、相手はウィニー(Winnie Madikizela。1936年~)です。
 彼女は、黒人が教育を受ける機会が限られていた当時の南アで、ヨハネスブルグのYMCA系の学校のヤン・ホフマイヤー・スクール(Jan Hofmeyer School)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_H._Hofmeyr_School_of_Social_Work
でソシアル・ワーカーの資格をとり、その数年後にウィトワーテルスランド大学(上出)で国際関係論の学士号をとります。
 ネルソンと結婚してから、ネルソンの入獄前に2人の子供(女児)が生まれます。
 1990年にネルソンが釈放されるのですが、入獄中に彼女が浮気をしていたこと等が原因で1992年に別居し、1996年に公式に離婚します。
 (浮気以外で、彼女が、ネルソンの入獄中及びネルソンとの離婚後に引き起こした不祥事については、下掲を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9 なお、{}内もこれによる。)
 離婚の前提として、彼女は、ネルソンに手切れ金500万ドルを要求しますが、裁判に出廷しなかったため敗訴しています。
 また、2010年のインタビューの中で、前夫ネルソンについて、「黒人の期待に背いた」、「カネを集めるために<運動に>乗り出しただけのことだ」、「<運動の>創建者だったということ以上でも以下でもない」、「娘たちに愛想を尽かされている」と語って顰蹙を買っています。
 それでも、離婚後も、彼女の国民的人気は高く、ANCの幹部を続け、国会議員も続けています。
 ちなみに、彼女は離婚後、Madikizela-Mandelaと、旧姓の後ろにマンデラをくっつけた姓を名乗っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Winnie_Madikizela-Mandela
 ついでですが、彼女の映画(winnie)がジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)主演で制作され、トロント国際映画祭で2011年9月に上映されたところ、評判が悪かったため、結局封切りはされず、DVD化もされていません。
http://en.wikipedia.org/wiki/Winnie_(film)
 1998年の3回目の結婚の相手は、モザンビークの政治家で人道家のグラサ・マシェル(Graca Machel。1945年~)です。
 彼女は、1986年に航空機事故で死亡した、モザンビークの初代大統領、サモラ・マシェル(Samora Machel「。1933~86年」)の未亡人であり、英国から人道への功労でデイム号を贈られている人物です。
 彼女は、通っていたミッションスクールの奨学金をもらってモザンビークの当時の宗主国のポルトガルのリスボン大学でロマンス語を専攻し、母国語のツォンガ語(Tsonga)に加え、仏、西、伊、ポルトガル、英各語に堪能な才媛です。
 1973年に帰国後、モザンビーク解放戦線に入り、1975年の同国の独立後、教育文化相となり、同年、初代大統領となったサモラ・マシェルと結婚するのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gra%C3%A7a_Machel
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB (「」内)
 こうしてマンデラの人生を見てくると、彼のこれまでの人生は、南アのアパルトヘイト体制の克服を目指しそれを成就した人生であったと同時に、(結果としてかもしれませんが、)理想の女性たる配偶者を追い求め、ついにそれに成功した人生でもあった、と言えそうです。
(続く)