太田述正コラム#0163(2003.10.1)
<トルコについて(その1)>
前回配信したコラム(#162)を注意深く読まれた方は、オルダス・ハックスレーが「ロシア、トルコ、イタリア、そしてドイツの独裁者達」と、どうやらトルコのケマル・アタチュルクを、スターリン、ムッソリーニ、ヒットラーと同列にみなしているらしいことに気付かれたことと思います。
日本ではアタチュルクについて、トルコの近代化、民主化を実現した偉大な英雄だとする見方が一般的なだけに奇異に感じられた方もいるでしょうが、これはアングロサクソンによるアタチュルク観、ひいては現代トルコ観として、決してめずらしいものではありません。
最近、改めてこのような観点から現代トルコを論じているのが、ジャーナリストのガレス・ジェンキンスです。
それではもっぱら彼に拠って、トルコとは何かを解明することにしましょう。
(以下、典拠abcは、それぞれa:Gareth Jenkins, Turkey and Europe: diplomatic masquerade? 19 Dec. 2001, http://www.opendemocracy.net/debates/article-3-51-353.jsp、b:同, Opinion Power and unaccountability in the Turkish security forces, http://csdg.kcl.ac.uk/Publications/assets/PDF%20files/Jenkins.pdf、c:同 Muslim Democrats in Turkey?, Survival, Vol,45, no 1, Spring 2003, IISS, PP45-66 を指す。)
1 トルコの起源としての軍隊
トルコは、欧州史に言うところの中世の初期に中央アジアから中東に、民族集団としてではなく軍隊としてやってきました。やがてオスマントルコは軍事的征服によって多数の民族を包摂する大帝国を築き上げ、統治下の多数の民族を軍隊にリクルートし、その軍隊(軍事機構)でもって帝国を統治しました。現在のトルコ共和国自身、軍人であるムスタファ・ケマル(後に改名してケマル・アタチュルク)によって、オスマントルコ帝国の残骸の中から、アナトリア半島に侵入して来ていたギリシャ軍を撃破・駆逐して1923年に生まれたものです。(b PP85)
つまり、トルコとは軍隊そのものであった、と言い切ってもいいでしょう。(注1、2)
(ただしその軍隊なるもの、つまりトルコは、一騎打ち中心の騎士(武士)の軍隊でも近代欧州に由来する近代軍でもなく、かつて遊牧民の軽騎兵集団であったという点に留意する必要があります。)
(注1)「戦争と征服がオスマン帝国存続の基本条件であったことから、その政府は『ほかの何物にもまして軍隊そのもの』だった。(脚注)
(脚注:A.H.Lybyer, The Government of the Ottoman Empire in the Age of Suleiman the Magnificent, Harvard University Press, 1913, PP90)
実際、政府の全機構、それどころかオスマン帝国の社会それ自体でさえも、軍事力を支援する補助的装置(auxiliary elements)であったと形容しても決して大げさではなかろう。」(David B, Ralston, Importing the European Army, The Introduction of European Military Institutions into the Extra-European World, 1600-1914, The University of Chicago Press, 1996(ペーパーバック版。ハードカバー版は1990), PP44)
(注2)18世紀末から19世紀初頭にかけてのサルタン・セリム三世の改革から後のアタチュルク等の将軍達による改革に至る「200年近くの間、軍人がトルコの近代化の先頭に立ち続けた。」(Ward & Rustow eds., Political Modernization in Japan and Turkey, Princeton University Press, 1968, PP352)
まこと、トルコもまた小なりとはいえども、日本、インド、ロシア等と並ぶ、一国にして一つのユニークな文明であると言うほかありますまい。
ここから、現在のトルコにおいてもなお、軍隊が国家の守護神として尊敬され、権威を維持している(b PP84)理由がよく分かります。(注3)
(注 3) 現在でもトルコ軍は人材を「独占」し、無条件で予算の優先配分を受けている。
2001年の統計では、トルコの総兵力は52万人にのぼり、NATO諸国では米国の137万人は別格として、三位のドイツの31万人をはるかに引き離している。軍事費の対GDP比が5.0%でトップ(次点がギリシャで4.8%、三位が米国で3.2%)であることから見ても、トルコはNATO随一の軍事国家であると言えよう。(The Military Balance 2002-2003, IISS, PP332-333)
2 ケマリズム
アタチュルクが行おうとしたのは、上で述べたような多民族の集積体としてのトルコを単一の「民族」につくりかえることでした。
オスマントルコは多民族の集積体であったと言っても、民族意識は低調で、宗教への帰属意識の方が強いものがありました。そしてイスラム教徒の優位の下で、キリスト教徒やユダヤ教徒達が平和共存していました。
アタチュルクは、「トルコ」なる民族が2000年も前から確固として存在していたという神話をつくりあげ、イスラム教はトルコがずっと後になって影響を受けた、トルコにとっては皮相的な存在に過ぎず、その影響から脱却すべきであると主張しました。
その上で、たまたまオスマントルコの最後の領土となったアナトリア半島(=小アジア半島)に居住していた雑多な住民はすべてトルコ「民族」であると宣言したのです。(ただし、ギリシャ化したビザンツ帝国との抗争以来の仇敵、ギリシャ人を除き・・。)
つまり、アタチュルクが行ったことは、世上言われているところのトルコの「世俗化」では決してないのであって、イスラム教を、神話(と死後のアタチュルクの神格化)に立脚するケマリズム(Kemalism)で置き換え、ケマリズムを唯一の公的宗教(=イデオロギー)とするトルコという概念(民族にして国家)を創造したということなのです。(アタチュルク自身が自分の神格化を望んでいたかどうかはともかく・・。)
(以上、括弧内を除き、c PP46-47 による。)
(続く)