太田述正コラム#6072(2013.3.8)
<愛について(その5)>(2013.6.23公開)
 「<永続、無償、無私であるべきものとされているところの、現在の(異性)愛は、>在来的なキリスト教徒の信条たる無際限の(limitless)寛大な聖なる愛とは似ても似つかないものだ。
 自分の愛する人に何か気に入らない点を見つけると、最も熱烈なる愛人同士の愛<でさえ>も<瞬時に>醒めてしまう<からだ>。
 <また、>親でさえ、そのことを絶対認めようとはしないが、子供達のうちにお気に入りの子が存在するものだ。
 尊敬の念や義務感<はありふれているけれど、それ>とは対照的に、愛は、稀であって、えり好みが付き物で、かつ、移り気だ。・・・
 メイ氏は、神を全身全霊でもって(with all one’s heart)愛せとの聖書的戒律は、「成功を収める人間関係の鋳型(template)…我々の生存(being)の地上平面における強力な<人間>関係の一生続く探求に我々の繁栄が立脚していることを言い表す一つのやり方」を提供している、と主張する。」(F)
 「・・・<私(メイ)としては、そのためにも、>浪漫的な愛及び婚姻の愛を性的期待の桎梏から解き放とう<と言いたい>。
 もとより、性交はこの上ない愉楽だが、人は、特定の人と甚だしきエロティックな絆を持ちつつ、たまにしか性交をしないことがある<ことを想起すべきだ>。
 <例えば、>12世紀と13世紀の宮廷愛のエートス・・トルバドゥール達の愛・・は濃密なエロティシズムを伴ったけれど、殆んど性交の成就(consummation)に至ることはなかった。」(A)
 「<現在の>我々の愛の概念は全くもって非現実的なものだ。・・・
 そのモデルは、キリスト教的世界観の中で<だけ>意味をなした。・・・
 私は、愛が達成される(attainment)のは稀だと思う。
 それなのに、正真正銘の(genuine)愛はあらゆる人の手の届くところにある、とみなされている。・・・
 数百年前までは、本当に価値のある愛の対象は神<(エホバ)だけ>だった。
 次いで、愛の対象が<神に代わって>浪漫的な配偶者(partner)となる地点へと<我々は>到達した。
 <そして、>現在では、本当に価値のある愛は、<浪漫的な配偶者に対するものに加えて、>自分の子供に対するもの、ということになった。
 今日において、子供達への愛について疑いを提起するのはタブーであるの<は、こういうわけからなの>だ。
 親が自分の子供達をどう愛するかに関して著しい不平等がある、と私は実際には思っているのだが、<以上のような背景の下、>子供達は、彼らが、無償かつ動揺することのない(unwavering)ところの<、親の>愛の対象である、と言い聞かされ続けている。・・・
 愛の歴史を通じて、愛の理想的な対象<とは何か、ということ>について、激しい議論が交わされてきた。
 しかし、今や、愛の最高の対象は、浪漫的同伴者ないし子供へと矮小化され(shrunk)てしまっている<、と言えよう>。
 これは、個人主義の歴史的発展と整合性がある。
 <すなわち、>個人は、その愛のニーズ<を満たしてくれるもの>の全てを他の一人の個人の中に見出そうとする。
 しかし、人が深い愛着(attachment)を感じる対象の範囲は、かつてははるかに広かったものだ。
 例えば、浪漫主義運動は、風景や自然が愛の最高の対象たりうるとした点において、意味があった。
 我々が<、これらを切り捨て、>愛の対象の範囲を狭めることによって、我々は、<愛する人との>肉体的な関係に余りにも多くのものを背負いこませてしまったのだ。
 だが、果たして我々は、<風景や自然、つまりは>地球を文字通り愛することができるのだろうか。
 できる。
 しかし、<地球への愛と>は、漠然と自然を見つめることではない。
 私にとっては、<地球への>愛は、地球を、その上で我々の人生が意味を見つける場所として我々が見ることに関わっているのだ。
 愛は、あなたの犬や仕事等、あなたの実存に意義を与える(give validity)意味を持ついかなるものも、ほぼその対象とすることができる。・・・
 性交は、人間関係を強め、人間関係の緊密さを発展させることによって、愛へと通じる大いなる入口たりうる。
 しかし、その大部分は、楽しい気晴らし(delightful recreation)でしかない。
 現代における<我々の愛に係る>諸態度の明白な問題は、仮に成功裏の性交が行われた場合、我々が、愛が手に入りうる(available)との過度の期待を抱いてしまうことだ。
 しかし、<性交と愛の>連接点(link)はそんなに近い所にはない。
 仮にあなたが、私がそれを定義するような愛を探しているのであれば、それが、<性交より先に、>まず最初に来なければならないのだ。」(H)
→もう少しの辛抱です。
 やがて、なんだそんなことだったのかと膝を叩かれることでしょう。
 読者の中には、既にご自分で膝を叩かれた慧眼な方もいらっしゃることでしょうが・・。(太田)
(続く)