太田述正コラム#6080(2013.3.12)
<愛について(その9)>(2013.6.27公開)
(2)私の見解
私は、性愛は、動物としての人間の、自分の遺伝子をできるだけ良い番の相手を通じて残し、増やそうという利己的な営みであって、それ以上でも以下でもないと考えます。
(同性愛者の性愛も、遺伝子云々に関しては逸脱的な、しかし、やはり利己的な営みであることには変わりありません。)
すなわち、性愛は「無償」、「無私」なものではそもそもないのですから、それが「無償」、「無私」なものに転化する(昇華する?)ことはむしろ困難である、とさえ言えるのかもしれません。
もちろん、それが「永続」する保証など皆無です。
では、性愛から始まった婚姻関係が「永続」しやすい条件は何なのでしょうか。
「イスラエルの最もエリートたる独立前の戦闘部隊であった男女混成のパルマッハ(Palmach)<(注14)>の多くの戦士達は、恋をし、結婚をしたが、その婚姻関係は今日まで続いている。・・・
(注14)独立のためのユダヤ人の軍事組織であったハガナ(Haganah)のエリート部隊であり、2,000人超の隊員から成っていた。独立後、イスラエル軍の中核となり、また、政治、文学、文化の分野で大活躍をした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Palmach
本当の戦闘任務に従事した少女達はごくわずかであったものの、彼女達は、エリートたるパルマッハ部隊の準備や作戦に緊密に関与したのであり、少年達はこの女性たる同僚達に目を留めざるをえなかった。・・・
<この女性達の中の一人の言によれば、>彼女は鉄のような気質を持っていた。
彼女は、自分のコミュニティから男達が、当時地下運動であったところの、パルマッハに入隊した時に、<同じくこの隊に>入隊した唯一の少女だった。
「私は自分のベストを尽くしたかったの」と彼女は回想して単純に答えた。
「私は、これが自分の国に奉仕する最も困難にして最も善い方法であることを知っていたの」と。・・・
<こうして結ばれた>カップルのほぼ全員が離婚をしていない。
多くが、60年或いはそれを超える婚姻生活を記録している。」
http://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2013/0214/New-nation-new-love-Israel-s-first-soldiers-forged-lasting-bonds-on-the-frontlines?nav=87-frontpage-entryNineItem
(2月16日アクセス)
命がけで人間主義を実践した者同士であれば、互いに結婚した相手と・・そして二人の間に生まれた子供に対しても・・人間主義的に関わるでしょうから、仮にそれが昔流の見合い結婚であったとしても、その婚姻関係(或いは子供も含めた家族関係)は「永続」する可能性が高い、と見てよいのではないでしょうか。
(上掲の事例は、ユダヤ人から見れば人間主義の実践かもしれないけれど、イスラエルの成立によって結果的に故郷を逐われることになったパレスティナ人から見れば、暴力による民族浄化以外の何物でもないのではないのか、という議論はここでは棚上げにしておきましょう。)
しかし、独立前のユダヤ人等と違って、周りが平時に生きている人ばかりの場合、結婚しようとする相手が人間主義的であるかどうかを、どうやって見分けたらよいのでしょうか。
その相手が、どのような分野の仕事をどのような動機で選んだのかは重要な手掛かりになると思います。
例えば、昨年ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、「重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E4%BC%B8%E5%BC%A5
ということのようですから、それが事実であれば、まさに人間主義的な人物でしょう。
では、職歴等では手がかりが得られない場合はどうか?
クラシック的音楽や純文学等の芸術を愛する人がよさそうです。
これは、「芸術と科学」シリーズでご紹介したカンデルの説に触発されたものです。
(芸術愛好家の域を超えた、プロの芸術家はアタマがおかしい場合が少なくないので、その点、覚悟がいりますがね・・。ピアニストや楽団員等の再現芸術家たる音楽家なら大丈夫かもしれませんが・・。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q125222042 )
さて、そろそろまとめに入りましょう。
私が、人間主義なるものを、和辻が指摘した人間(じんかん)概念を援用して唱えていることはご承知のとおりですが、更にカンデルの説を私流に援用しつつ、人間主義的な人とは、反対の作用を持つものを含む、多種多様な化学物質の脳内分泌によって脳が活性化する経験・・カンデルの言う「aha!」経験・・を積み重ねた人なのであって、本居宣長は、そのような人を「もののあはれ」を解する人とした、と私は解釈するに至っているわけです。
恋愛は、人間が殆んどの動物と共有しているところの、比較的少数の化学物質の脳内分泌によって脳が興奮している利己的状況であって、上述のような、人間固有の・・他の霊長目には皆無とまでは言いませんが・・、脳が総合的に活性化している人間主義的状況とは似て非なるものである、と考えます。
かくいう私ですが、キリスト教的世界観こそ一貫して歯牙にもかけていなかったものの、比較的最近まで、青年時代に私流に解釈した上で染まっていたところの、プラトン主義的世界観やマズロー的世界観からは脱却し切っていませんでした。
そのため、私は、自分がどうして、身の程も知らず、防衛庁(省)の、そして日本の、更には世界の理想的なあり方を飽くなく追求して来たのか、について、「愛」する人が見いだせない、或いは「愛」する人と結ばれない非充足感(飢え)を代償的に充たすためだ、と思いつつ、その一方で、だからこそ、私の描く理想にはどこか飢えに由来する歪みがあり、だから容易に人々に受け入れられないのだ、とも思っていたのです。
「恋と愛について」(コラム#2745)を書いた当時は、まだこのような思いでいたため、フロムとスコットペックの主張を紹介しながらも、実のところ、彼らの主張を本当の意味では理解していませんでした。
それは、この二人が「愛」という言葉を使っていたせいでもありました。
この「愛」を「もののあはれ」ないし「人間主義」と読み替えることによって、今こそ、彼らの主張が完全に理解できた、と申し上げておきましょう。
皆さんはいかがでしょう?
(追記:人間主義は、「無私」や「無償」をその属性とはしていません。そこが、利他主義とは異なるところです。)
(完)
愛について(その9)
- 公開日: