太田述正コラム#6130(2013.4.6)
<第一次世界大戦の起源(その9)>(2013.7.22公開)
(10)著者への批判
「最終的に、欧州の指導者達は、「見れども見えていなかった夢遊病者達」であって、自分達が何をやっているのか自覚しないままハルマゲドンを呪文を唱えてもたらした<というのがクラークの結論だ。>
<しかし、>それは資料に基づく記録が示すところと一致しない。
平和であった最後の日々に徹夜を繰り返しながら、欧州の指導者達の心は、戦争を始めたら確実にもたらされるところの「身の毛のよだつ殺戮」の幻でかき乱されており、(彼の<家の周りの>街灯柱群を夢見心地で凝視していたサー・エドワード・グレイを除き、)彼らは、完全に覚醒しながら深淵を覗き込んでいたのだ。
その上で、彼らはこの深淵に真っ直ぐに向かって飛び降りたのだ。」(D)
「クラークは、サラエボでの二人の殺害に係るセルビア政府の共犯性に関し、誇張しており、現在の理解においては、独立国家としてのセルビアを除去しようとした意図はバルカンにおける力の均衡への根本的脅威であり、だからこそ、欧州における二つの同盟の陣容にぴったりはまったのだ。
クラークの見解では、オーストリア・ハンガリーが1914年7月28日にセルビアに宣戦し、ベオグラードを攻撃したことについては、ウィーンの動きに抵抗することを選んだがゆえに、ロシアとフランスが、その後に始まった全面戦争についての主たる責任を負わなければならないとする。
これは、ドイツの動的な役割を無視しているがゆえに、単に一方的であるだけでなく、究極的に腑に落ちない主張だ。
欧州の動力源にして休むことなき(restless)国家として、ドイツは文字通り中枢(pivotal)だった。
露仏同盟によって「取り囲まれ」、ドイツは、セルビアのそれを含む、次第に募るナショナリズムによってその他民族的基盤が脅威を受けていた、主要同盟国たるオーストリア・ハンガリーの弱さに脆弱性を感じていた。
1914年7月においては、(通常自分の政府の最大の批判者であったフランスの社会主義者にして平和活動家のジャン・ジョレス(Jean Jaures)<(注23)>を含む)多くの人々にとって、オーストリア・ハンガリーがセルビアを滅ぼそうとしていたこと、そしてドイツの支援があるからこそこんなことができたこと、更にまた、これはバルカンにおける力の均衡を逆戻りさせること、だからロシアとフランスは対応を行わざるをえないこと、は明白だった。
(注23)1859年~1914年7月31日。高等師範学校卒。哲学博士。フランスの社会主義者にして政治家。「第一次世界大戦直前のナショナリズムの高揚の中で、帝国主義戦争に反対し和平への呼びかけを勧めたために、熱狂的な愛国者ラウール・ヴィラン(Raoul Vilain)によりカフェ・クロワッサンで暗殺された。それは、第1次世界大戦が勃発し、フランスが総動員体制(いわゆる「ユニオン・サクレ」)に入る前日のことであった。労働者と農民の立場から見た社会史としては初めての試みの一つである、大著『フランス大革命史 Histoire socialiste de la Revolution Francaise,1901-04年』4巻<をものした。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AC%E3%82%B9
両国は、しぶしぶ対応を行ったのだ。
ドイツが唯一責任を負わなければならない、と言っているわけではない。
しかし、ドイツが果たした役割を無視しては、この戦争がもたらされた経過が訳が分からなくなってしまう。」(G)
3 終わりに
元首夫妻の惨殺ということで言えば、20世紀初頭(1903年6月)のセルビア国王と王妃の惨殺
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_I_of_Serbia 前掲
は、20世紀前半(1918年7月)のニコライ2世夫妻とその子供達と従者達のボルシェヴィキ政権による皆殺し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96
20世紀央(1945年4月)のムッソリーニとその愛人のパルチザンによる惨殺と遺体の展示
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B
や20世紀後半(1989年12月)のチャウシェスク夫妻の公開銃殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AF
と比べて特段野蛮だとは思いません。
遡れば、フランス革命の際の1793年の、国王夫妻の処刑、とりわけ、罪らしい罪を犯していなかったマリー・アントワネットのでっち上げに近い裁判による処刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
もありましたしね。
イギリスと区別されるところの欧州というのは、そもそもそういう所なのです。
もちろん、イギリス人たるクラークが抱いた嫌悪感はよく理解できますが・・。
しかし、1914年のサラエボでの大公暗殺は非難されてしかるべきである、という点に関してはクラークと完全に同意です。
すなわち、それは、ナショナリズムという、民主主義独裁の一形態を掲げて、余り民主主義的とは言えないけれど、多民族協調をある程度実現していたところの、オーストリア・ハンガリー帝国の解体を期して行われた凶行であったことから非難されるべきであり、しかもそれは、ロシアの勢力圏拡大の一環として、いわばロシアの手先として行われた凶行であった点から一層非難されるべきなのです。
このように見てくると、欧州の諸列強の指導者達は皆夢遊病者的にこの戦争を始めた、とするクラークの主張はおかしいと言わざるをえません。
すなわち、セルビアも、(日露戦争における挫折を欧州への勢力圏拡大によって解消しようとしてきた)ロシアも、そして(セルビアを膺懲したかった)オーストリアも、このオーストリアを支援したドイツも、はたまた、(普仏戦争の復讐・・アルザス・ロレーヌの奪還・・を期していた)フランスも、夢遊病者的では決してなく、ただ一国、英国だけ・・彼はグレイ外相だけを名指ししている・・が夢遊病者的であった、という一書評子の言は、まさにその通りだと私は思うのです。
なぜなら、ドイツやオーストリア・ハンガリーと戦った英国は、セルビアのナショナリズムを支持したということになるところ、多民族帝国たる(オーストリア・ハンガリー帝国はもとより)大英帝国の分解にお墨付きを与えたに等しかったからであり、また、ロシアの勢力圏拡大を支持したということになるところ、これまた、クリミア戦争(1853~56年)を戦う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
等、大英帝国を維持すべく、接壌的膨張主義のロシアとユーラシア大陸全域にわたってグレート・ゲームを演じてきたところの、いわば英国の19世紀以来の国是の放棄に等しかったからです。
英国は、せっかく、日本側に立って事実上参戦した日露戦争においてロシアの東アジア進出を挫折させたのですから、今度は、独墺側に立って事実上第一次政界大戦に参戦し、(フランスと)ロシアを短期間で決定的に敗北させ、その欧州進出を半永久的に挫折させるべきだったというのに・・。
とまれ、英国による、ナショナリズムの支持は、ウィルソン米大統領による民族自決の奨励を招来し、大英帝国の瓦解プロセスを始動させただけでなく、ナショナリズムの鬼子たるファシズム/ナチズムの生誕をもたらしてしまうことになりますし、同じく英国による、グレート・ゲームの放棄は、独墺側の勝利で短期で終わるはずであった第一次世界大戦を長引かせ、厭戦気分の蔓延したロシアにおいて、戦争継続を主張していたケレンスキー政権のボルシェヴィキによる政権奪取をもたらしてしまい、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD
ロシアが、赤露に変貌した、よりおぞましい形での接壌的膨張主義の実践を継続することを許してしまうのです。
嘆かわしいことに、英国が、第二次世界大戦においても、ほぼ同じ図式の夢遊病者的愚行を再度繰り返したことを我々は知っています。
すなわち、(自分が生み出した怪物たる)ナチスドイツと戦った英国は、漢人ナショナリズムを支持するとともに、ロシア改め(やはり自分が生み出した怪物たる)赤露の欧州及び東アジアへの勢力圏拡大を黙認したのであり、結果的に、相対的にはちっぽけな日本帝国と心中する形で、全球的な大英帝国を過早に瓦解させてしまうのです。
それにしても、双極性障害者のチャーチルが、第一次世界大戦の時は、海軍大臣として対独墺開戦に熱烈に賛成し、第二次世界大戦の時は、以前から対独強硬論をぶっていた彼が、まず海軍大臣に復帰し、チェンバレンの辞職の後を受けて首相として戦争を指導した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
ことは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の一体性の一つの強力な例証であるところ、それは、英国にとっても日本にとってもまことにもって不幸なことであった、と改めて申し上げておきましょう。
(完)
第一次世界大戦の起源(その9)
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