太田述正コラム#6248(2013.6.4)
<近世欧州の実相(その2)>(2013.9.19公開)
(2)戦争と軍隊
「この時期が始まった頃、欧州は封建主義を脱しつつあり、初期の国民国家群が出現し始めていた。
バラバラの封土群、そしてその統治者達は、より多くの土地と権力を欲しており、拡大の手段として戦争を選んだ。
宗教もまた主要な要素であり、プロテスタントが長きにわたるカトリックの覇権に挑戦しつつあった。
30年戦争、イタリア戦争(Italian Wars)((1494~1559年)、フランス宗教戦争(1562~98年)、そして低地諸国におけるスペイン王室の諸戦争(1567~1648年)の時期の欧州についての大部分の歴史家達は、極めて大きな死者数であるにもかかわらず、これら身の毛のよだつ諸紛争に脚注的関心しか示してこなかった。」(F)
「我々は、ルネッサンスを人間の輝かしい業績の時代にして、芸術的天才とヒューマニスト的光輝の頂点にして、シェークスピア、ミケランジェロ、そしてモンテーニュの時代である、と考えている。
しかし、それは同時に、恒常的にして悲惨な戦争の時代でもあった。
哲学者達ではなく、諸軍が近代国民国家が封建社会から出現したところの、欧州の顔を形作ったのだ。
この本の中で、ルネッサンス史の主要な学者の一人である著者は、興味津々の物語のモザイクを織りなす形で、この時期の暗い真実を捉える。
ラウロ・マルティネスが我々に示してくれるように、全体戦争は20世紀の発明ではない。
<当時の>諸紛争は、その過程で一般住民に対して容赦しなかった<からだ>。
ルネッサンス期の軍隊は、文字通り動く都市だった。
20,000から30,000人の男達からなる部隊は、その頃の多くの都市よりも人口が多かった。
そして、それは、何マイルもの周辺の食糧と補給品を貪ったところの怪物だった。
それは、町や田舎に脅威を与え、それ自体に対しても飢饉と疾病の脅威を与えたところ、それらは、しばしば、戦闘よりも致死的だった。
戦いそのものが野蛮であり、その暴力は、火縄銃から迫撃砲に至る新しく発明された武器の使用によって、一層増した。」(E)
「多くの「統治者達」は、いわゆる常備軍を持っていなかった。
その代わり、彼らは、王室が任命した企業家達によって遠方の諸地から集められた傭兵達にもっぱら依存していた。
旱魃期においては、欧州の多くの地を襲った貧困により、(仮に払われた場合でも)賃金はわずかだし規律は過酷だったけれど、民衆の40%もが「生きるために」傭兵にしてくれと懇願し武器をとった。
宿営地の多くには絞首台があり、逃亡しようとする者への警告となっていた。
鞭打ちがやたら行われ、悪党達には焼印が押されたり、その腕や脚が切り落とされたりした。
人力のもう一つの供給源は、典型的には、8世帯に1人の息子の割合で行われる徴用だった。
マルティネス氏は、「抵抗するには分散し過ぎていたので、農民諸コミュニティは、遠く離れた野における戦争のために誰が選ばれるかという問題に対するコントロールを行うために、この剪定(cull)に協力したように見える。
<すなわち、>富農は、小さい貧しい男の子達を自分達の家に連れて行き、飯を食わせ、着物を与え、働かせ、呼び出しが来た暁には、自分達自身の息子達の代わりに軍隊に彼らを引き渡した。」と記す。
これらの方法によって、軍閥達は、・・・軍隊を集めたのだ。
一旦行動に移るや、これらの巨大な大群は、町と田舎に同様に脅威を与え、その跡を飢饉と疾病が追った。
穀物と畜牛は徴発され、田舎の巨大な片々を食糧無しの状態にした。
10,000から15,000頭の馬を伴ったこのような大群は、「数マイル四方にわたって付近の村々と田舎の全食糧及び飼葉をすぐに食い尽くしてしまった。だから、このような軍隊は一か所に留まっていることはできなかった。それは新しい牧草地と貯蔵食糧を求め続けなければならなかったのだ。」
村人達が侵攻者を捕まえると、「窒息させるような怒りと飢えとが、引き続いて起こる蛮行を必然たらしめた。彼らの皮を剥ぎ、炙り、食べることが、復讐と滋養の儀式となった」とマルティネス氏は書く。
究極の標的は、攻囲されることとなった諸都市だった。
飢餓は主要な「武器」だった。
というのも、住民に食わせるために何週間か分を超える糧食を貯蔵している町など殆んどなかったからだ。
火薬の出現は、攻撃者達に防御を叩きつぶす手段を与えた。
武器には、カタパルト(投石器=catapult)<(注10)>もあった。
(注10)「石などを投擲して敵の人馬もしくは城などの建築物を標的とし射出攻撃する兵器(攻城兵器)・・・石や砂利の詰まった袋を飛ばして城門などを攻撃するほか、火のついた藁や火薬を飛ばして城内に火災を起こさせたり、汚物や死骸を投擲して敵の士気を下げたり、疫病を流行させたりするなどの使われ方をすることもあった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88_(%E6%8A%95%E7%9F%B3%E6%A9%9F)
なお、catapultは弩(おおゆみ)を意味する場合があるので注意が必要である。
「弩は横倒しにした弓(翼と言う)に弦を張り、木製の台座・・・の上に矢を置き引き金・・・を引く事によって矢や石などが発射される。・・・威力が射手の腕力に依存し命中精度を上げるのにも長期間の訓練が必要となる弓に比べ、誰が用いても威力が変わらず短時間の訓練で一定の命中精度が得られる弩は、農兵等の戦争に不慣れな人材を大量に動員する必要があった社会(<支那>・<欧州大陸>)では重宝された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9
更に脱線するが、ロングボー (Longbow) は、「ウェールズおよび<イギリス>で使用された弓の事。長弓の一種で・・・長さが・・・1.2~1.8メートル・・・程もある長大なものである。・・・。13世紀頃、<イギリス>がウェールズに侵攻した際にウェールズ弓兵は侵略者にたいしてこの武器を用いて重い損害を与えた。その被害者であった<イギリス>は、ウェールズ公国の併合後、この強力な武器を素早く自軍に取り入れた。この武器は・・・、百年戦争のクレシーの戦いやアジャンクールの戦いをはじめとする数々の戦いでは、速射において長弓に劣る弩を使っていたフランス軍相手に目覚しい効果を挙げた。その射程距離は500メートルを越えたという。ただし、扱いには弩以上に訓練を要する為、戦争が長引くと多くの名射手が戦死していき、さほど訓練を要しない弩を比較的多く用いていたフランス軍が最終的に形成を逆転するに到った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9C%E3%82%A6
(マルティネス氏ではない)他者によって描写された一つの恐怖戦術は、捕虜をとって彼を<投石器でもって>標的たる都市に向けて何十ヤードも発射することだった。・・・
糧食が尽きると、防御側は、都市から「不要な人間」、すなわち、女性、子供、そして身障者を追い出したものであり、彼らは<攻囲側によって>一刀両断にされた。
蛮行は蛮行を呼ぶ。
1706年8月、フランス軍はトリノ(Turin)を攻囲した<(注11)時のことだ>。
(注11)スペイン継承戦争(コラム#100、162、802、896、1136、3559、3757、3980、5308、6162)の一コマ。ハプスブルグ家のオーストリア、サヴォイ公国、プロイセンに対して、ブルボン家のフランスと同じくブルボン家のスペインとが戦った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Turin
彼らは、最初の攻撃で約1,700人の兵士を失った。
マルティネス氏は、「その日の終わりには、負傷した何百人ものフランスの兵士達が、城壁の周りの溝の中で呻きながら助けを求めていた。
トリノの防御者達は、近より、負傷した人々に向かって何トンもの薪、ピッチと油を塹壕群に投げ入れた。
彼らは、それからこの人と物の混合物に火をつけ、壁や塁壁からもがいて逃れようとする負傷者達に向けて狙撃手達が標的を合わせた」と記す。・・・
マルティネス氏の全般的メッセージは、「全体戦争」の概念は近代の発明ではない、というものだ。
政治権力にせよ何の権力にせよ、無制限の権限を統治に与えることは、死を招く行為なのだ<、というわけだ。>」(F)
(続く)
近世欧州の実相(その2)
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