太田述正コラム#6262(2013.6.11)
<パナイ号事件(その6)>(2013.9.26公開)
「<さて、海軍>軍令部<からは、>・・・<8月>6日に・・・長谷川第三艦隊<(注16、17)>司令長官が連合艦隊所属の第8戦隊、第一水雷戦隊、第一航空戦隊を増派部隊として作戦指揮するという命令が出され<ていた。>・・・
(注16)「第三艦隊は、大日本帝国海軍の部隊の一つ。常設だった第一艦隊・第二艦隊と違い、必要に応じて編制・解散される特設艦隊であったため、日露戦争から太平洋戦争までの間に六代にわたって編制と解散を繰り返した。・・・1932年1月28日に上海事変が勃発したため、現地に駐留していた第一遣外艦隊・第二遣外艦隊に増援部隊を派遣し、この3つの部隊を統括する四代目の第三艦隊を編制した。・・・河川砲艦を主体と<して>揚子江流域を監視した。1937年7月に日華事変が勃発し、第三艦隊の統率能力を上回る大量の増援部隊が加わったため、10月には増援部隊で第四艦隊を新編し、第三艦隊と併せて統率する支那方面艦隊が編制された。第三艦隊司令部は支那方面艦隊司令部が兼任した。1939年11月15日より、支那方面艦隊隷下の3個艦隊は「~遣支艦隊」へ改名することになり、第三艦隊は「第一遣支艦隊」へ改名すると同時に、司令部の兼任も解除された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%89%A6%E9%9A%8A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D)
(注17)1883~1970年。海兵、海大。「大正6年から15年まで途中1年間帰国した以外は、<米国>での出張在勤が続く。・・・第3艦隊司令長官に就任した際には、真っ先に中国陸海軍の首脳陣と会談している。中国将官の多くが長谷川の礼節ある態度に感服し、日中戦争で対戦した提督であるにもかかわらず、長谷川を責める者は少なかった。・・・盧溝橋事件が勃発すると、即時に支那派遣軍首脳と会談し、勃発から僅か2日間で陸海軍の航空隊運用の役割分担を決定し、実行に移している。第二次上海事変における渡洋爆撃は世界初の試みであるが、長谷川の即断がなければ実施が遅れていたことは必至である。昭和15年に台湾総督<に就任し、後>・・・軍事参議官・・・GHQ・・・は長谷川を逮捕したが、・・・無罪と判断して釈放した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B8%85
政府と陸海軍の首脳が、思い切った調停案を作成して、外交交渉による和平工作に望みをかけていたその同じ時期に、現地海軍は着々と全面戦争を発動、それも開戦とともに急襲作戦を展開するための準備を整えていたのである。・・・
→笠原は、海軍は、陸軍とは違って、省部、そして上下が一丸となって最悪事態に備えていた、と書くべきでした。(ちなみに、このような陸軍と海軍の違いは、組織が後者の方が小さく、かつ単純であったこと、海軍の本分は艦艇にあるところ、艦艇内が日本型経済体制になったら規律、安全が即危うくなること、等に由来すると私は考えています。)(太田)
12日・・・の夜、米内海相は・・・四相会議を開催させ、陸軍上海派兵の方針を承認させた。そして翌13日の夜開かれた臨時閣議において「上海方面の居留民直接保護のため」という名目で、陸軍の上海派兵を決定した。・・・
<他方、>同日早朝、参謀本部第一部長石原莞爾少将は、軍令部第一部長近藤信竹少将に「出兵不同意」を表明している。・・・
8月・・・13日・・・午前中に小競り合いのていどの銃撃戦があった上海市街では、夕方から海軍陸戦隊と中国軍との間で本格的な戦闘が開始され、戦火は華北から華中へといっきょに飛び火したのである。」(64~65)
→笠原は、いかにも陸軍(の少なくとも中央の一部)に比べて海軍が好戦的であったような印象を与えようとしていますが、陸軍は、満州国と華北にしか実働部隊を展開していなかったのに対し、海軍は、蒋介石政権の首都の南京のある揚子江流域に、同流域を中心的行動地域とする部隊を展開しており、蒋介石政権内の反日的気運や同政権軍、とりわけ末端部隊、の対日攻撃態勢を、むしろ陸軍よりも的確に把握していた可能性が高く、このことが当時の海軍の陸軍との切迫感の違いとなって現われていたのではないか、と思われるのです。(太田)
「<13>日の夜11時50分、長谷川司令長官は、第二空襲部隊に南京、広徳、杭州、第三空襲部隊に南昌、第八、第十0戦隊および第一水雷戦隊飛行機に上海の紅橋飛行場の急襲を命じた。
8月14日の渡洋爆撃は、東支那海に台風が停滞していたため、長崎大村基地からの先制攻撃は中止されたが、台湾の台北基地を発進した第三空襲部隊の18機が悪天候をおして杭州と広徳を空襲し、のちに「世界戦史空前の渡洋空爆」「航空戦史上いまだかつて見ざる渡洋爆撃の偉勲」と喧伝された。・・・
こうして、海軍は、陸軍や政府に先んずるかたちで8月14日に不拡大方針を放棄し、・・・中国との全面戦争の作戦を開始したのである。・・・
1931年9月18日の柳条湖における満鉄爆破事件は、翌日朝に関東軍司令部の迅速な対応措置ぶりに、同事件の計画性、謀略性を察知することができたが、大山事件後に実行された第3艦隊ならびに軍令部の迅速周到な作戦準備・発動ぶりには、同様な計画性が察知される。それは盧溝橋事件発生後の陸軍の対応との相違を比較しても、明らかであろう。
→既に記したようなことからも、このように、外形的類似性だけでもって、計画性(陰謀性)の存在を推認するのは、笠原の軍事知識の浅さと扇動家的偏向に由来する暴論であることがお分かりいただけることでしょう。(太田)
8月15日午前1時半、近衛内閣<は>「帝国政府声明」、いわゆる第一次近衛政府声明を発表した。
・・・支那側が帝国を侮蔑して不法暴虐いたらざるなく、全支にわたる我が居留民の生命財産奇殆に陥るにおよんでは、帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。
この声明を石射猪太郎は「独りよがりの声明、日本人以外には誰ももっともというものはあるまい」と日記(8月15日)に書き、さらに「無名の師だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。しからば支那も悔い改めるにきまっている。日支親善は日本次第という支那の言い分のほうが正しい」とまで書いて、政府の傲慢な姿勢を批判した。
この日、陸軍は第3師団と第11師団よりなる上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)の「編組」を発表した。「編組」というのは、同派遣軍の任務が上海地区の日本人保護と言う限定された小範囲の一時的派遣であり、純粋の作戦軍ではないという意味で、天皇の命令による「戦闘序列」という正式用語はわざわざ避けた。参謀本部がまだ戦局不拡大方針でのぞんでいたことの表れである。
→海軍の方の部隊も、「<8月>6日に・・・長谷川第三艦隊<(注16、17)>司令長官が連合艦隊所属の第8戦隊、第一水雷戦隊、第一航空戦隊を増派部隊として作戦指揮するという命令が出され<ていた。>」(前出)と「編組」であったわけであり、笠原のコジツケには長嘆息するほかありません。
なお、石射のこの時の感想は私的なものとはいえ、上司の広田外相を含む閣議決定に対する造反であり言語道断です。彼は7月に辞表を提出したものの広田に慰留されて東亜局長にとどまっていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
という経緯がありますが、私なら、(恐らく石射のような考えはそもそも抱かなかったでしょうが、それはともかくとして、)この時点で再度辞表を叩き付け、慰留されても断固拒否して外務省も去り、世論に自分の信ずるところを実名で、いや少なくとも匿名で訴えていたことでしょう。(太田)
いっぽう海軍はこの日、満を持していた中国の首都南京の渡洋爆撃を敢行した。・・・
南京渡洋爆撃の「成功」とそれに歓呼の喝采をあげた国民の反応は、不拡大派には大きな打撃となった。
・・・蒋介石は、・・・8月15日に総動員を下令して、全面抗戦体制に入った。8月21日に中国はソ連と「中ソ不可侵条約」を締結調印、ソ連の軍事的、経済的援助を増大させるとともに、国内的には共産党との合作促進の条件をととのえ、翌22日に共産党軍(紅軍)を国民革命軍第八路軍(略称八路軍)として国軍に編入することを発表。地方の共産党政権を辺区政府として承認することにした。」(66~69、76~77)
→1936年12月の西安事件の時に既に(ソ連の意向に基づき、)国共合作は決まっていたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
中ソ不可侵条約や中国共産党軍の形式的な蒋介石政府軍への編入についても案は相当前にできあがっていたと考えないと、8月15日の第一次近衛政府声明の後、1週間以内にこれら措置をとれるはずがありません。
海軍は、こういったこともおおむね把握していたのではないでしょうか。
また、ないものねだりと言うべきでしょうが、笠原は、当時の日本政府がソ連に対する抑止政策を陸軍を中心に推進していたこと、そのために、対ソ緩衝地帯として満州を確保しなければならなかったこと、そして、満州の後背地たる支那本体を日本に対して無害化しなければならなかったこと、その支那本体がどれだけ親ソ勢力が食い込んでいたかが国共合作の顕在化によって明らかになったこと、に完全に口を拭っています。(太田)
(続く)
パナイ号事件(その6)
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