太田述正コラム#6264(2013.6.12)
<パナイ号事件(その7)>(2013.9.27公開)
「海軍省は、・・・8月22日に戦備考査協議会を組織し、その覚書のなかに「今次事変の推移を見るに、事変勃発いらいの不拡大局地解決方針による時局収拾はその望みなきにいたり、今や対支膺懲の作戦を余儀なくせられ、作戦相当長期にわたり、戦局拡大の算大なるのみならず、その第三国の動向に対しても慎重なる考慮を必要とするにいたれり」と述べている。
海軍は日中全面戦争を、航空戦力を中心とする海軍軍備の近代化・拡張をすすめる絶好の機会として利用し、米・英・ソの動向にも対抗できる海軍戦力の拡充をめざすことを考えていたのである。」(81)
→この箇所は、笠原の歪曲的な深読みです。
海軍に、陸軍と軍事予算の分捕り合戦を行うため、ソ連以外に米国等の脅威をプレイアップしてきた前歴があることは確かですが、この覚書に関して言えば、当時、海軍が的確な情勢判断をしていた、というだけのことでしょう。(太田)
「8月15日の南京渡洋爆撃は、・・・木更津航空隊の被害も大きかった。そのため・・・<高々度からの、連日の夜間爆撃に切り替えた。>・・・
これに対して8月29日、南京駐在のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの五カ国の外交代表が南京空襲を抗議し、停止する要求を日本に提出した。抗議書には「いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を促すべきである…爆撃は、かかげられた軍事目標にもかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながっている」とあ<った。>・・・
この間、・・・空襲された都市は、漢口、上海、南昌、揚州など長江中流域の主要都市に拡大した。さらに8月31日には、広東と福州を空襲し、戦火をいっきょに華南まで飛び火させた。・・・
<続いて、>海軍は山海関から広東省にいたる外国権益下の香港・澳問・広州湾を除いた全中国の海域の封鎖を開始したのである。・・・
日本海軍が実施した海上封鎖が、中国援助のビルマ・ルート(蒋介石政府援助のルートという意味で援蒋ルートともいわれた)建設の契機となり、やがては同ルートをめぐる対立が日米戦争、アジア太平洋戦争にまで発展することになるが、その可能性を陸軍省の上級幹部たちは知っていた。陸軍省軍務局軍事課長の田中新一大佐の『支那事変記録』には次のような情報が・・・記されている。
・・・8月中、米国は雲南省昆明からビルマ領バーモに至る自動車公路1200キロメートル建設工費1000万元のクレジットを与えたという。事変の将来にかんがみ、支那沿岸経由の交通至難化することを見越し、右自動車公路によって援支物資を供与するとともに、アメリカが必要とする桐油、タングステン等の取得を確保せんとするにあるべく、事変は逐次中南支に拡大することを示唆するかにもみえてきた。
→米国は、戦火が上海に飛び火した直後に、(恐らくはビルマを領有していた英国の黙認の下、)蒋介石政権に対する(日本による経済封鎖破りを目的とした)軍事的支援に事実上着手した、ということです。
国共合作が顕在化した時期に、米国がかかる支援に着手したということは、この時点で、既に、米(英)ソ支(≒中共)対日本という太平洋戦争の構図が確定した感があります。
米国のローズベルト政権は、常軌を逸していた、と指弾されるべきでしょう。(太田)
・・・8月26日、駐華イギリス大使クナッチバル・ヒューゲッセン<(注18)>が自動車で南京から上海に向かっていた途中、・・・海軍機の機銃掃射を受け、大使が重傷を負う事件が発生した<(注19)(コラム#4272、4274、4719、5438)>。大使の車は屋根に大きなイギリス国旗をペンキで描いて走行していたところ、・・・銃弾が浴びせられた。イギリス側は・・・日本政府に謝罪と保障(ママ)および責任者の処罰を要求し、イーデン外相は日本がそれを受け入れなければ、駐日イギリス大使のロバート・クレーギー卿を本国に召還する決意をかためた。・・・ <しかし、>第三艦隊はとうとうその事実を認めようとしなかった。
(注18)Sir Hughe Montgomery Knatchbull-Hugessen(1896~1971年)。イートン、オックスフォード卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hughe_Knatchbull-Hugessen
(注19)笠原の引用していない石射の日記(『外交官の一生』)の同事件の記述。↓
「加害機は日本機と認められる旨、同乗の道難者から発表された。当時上海方面の制空権が、完全にわが海軍に帰していた実情からして、誰が考えても加害機は日本機であると推定されるのであった。
しかるに、わが現地海軍は、変を聞いた当初、艦隊長官長谷川中将自ら病院に馳せつけて、遭難見舞の辞を述べ、遺憾の意を表したにかかわらず、たちまち態度をかえ、事実調査をした結果、その日自動車を襲った飛行機はないと言い出した。現地海軍からの報告として、海軍省係官の図上説明によると、当日当刻、上海・南京聞の上空に遊撃したわが海軍機はあるにはあったが、遊撃航路が事件の現場より外れており、かつイギリス国旗掲揚の自動車を襲った覚えなしというのである。(中略)
そのうちに、海軍も次第に反省して、ようやく加害機は日本機であったらしいとの結論に達し・・・た。」(P317-P318)
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/shanhai1.html
結局、外務次官堀内謙介とクレーギー駐日英大使(9月3日着任)が外交決着の努力をおこない、9月21日、閣議決定をへて広田外相が英大使に遺憾の意を表明、今後同事件の再発を防止する措置をとることを約束する解答を手交し・・・海軍側の責任者の特定と処罰問題をあいまいにしたまま外交決着がはかられた。」(81~91)
→注19で紹介した石射の短い記述にはおかしい点が3点もあります。(笠原がその引用を避けたのは意図的か?)
第一に、長谷川司令長官は上海を定係港としていた(第三艦隊の)旗艦出雲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
にいたのでしょうから、(やはり上海にいたはずの日本の駐支大使がどうしたかは知りませんが、)上海にいた日本の高官が、上海の病院に入院した「友好国」の高官ヒューゲッセン(ヒューゲッセンの英語ウィキ前掲)を見舞ったのは不思議ではない上、遺憾(regret)の意を表することは、それだけでは必ずしも謝罪を意味するものとは言えないことです。
第二に、この事件のわずか4日前(3日前?)に蒋介石政権軍の航空機が上海の国際租界を誤爆している・・同政権は、当初、日本軍がやったと言い張った・・
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/shanhai1.html 前掲
ことからも、ヒューゲッセン事件「当時上海方面の制空権が、完全にわが海軍に帰していた」、とは考えにくいことです。
第三に、「海軍も次第に反省して、ようやく加害機は日本機であったらしいとの結論に達し・・・た」はずがないことです。海軍中央が、外務省の強い働きかけ・・高度の政治判断というよりは人間主義に基づくものか・・もあり、第三艦隊の反対を押し切って、「友好国」英国に対して政治的に配慮した対応を行うことにしぶしぶ同意した、ということであったと思われるのです。
そもそも、決着自体、玉虫色の内容になっていることに注意してください。
それでも、これは、悪しき先例を残すことになります。
(この関連で、コラム#4719で紹介した、上海派遣軍司令官の松井石根陸軍大将の本件に係る意見具申を振り返っていただきたいところです。)
このように見てくると、石射は、人間としても、また官僚/外交官としても遜色があった、と言わざるをえません。
彼を、東亜局長という重要ポストに就任させた外務省は(これに限ったことではありませんが)おかしい、ということです。(太田)
(続く)
パナイ号事件(その7)
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