太田述正コラム#6286(2013.6.23)
<パナイ号事件(その17)>(2013.10.8公開)
さて、笠原は、180頁から長々と説明を行った後、204~205頁に至って、「<12月12日、>海軍攻撃機隊の搭乗員たちは、パナイ号がその位置に・・・いるという情報を知らされずにいたので、中国部隊輸送のアメリカ艦船と「誤認」して撃沈した、つまり星条旗をかかげた砲艦がパナイ号とは知らずに撃沈したという「誤認」である。・・・
ただし、事実どおり公表しては、アメリカにとっては「故意爆撃」となる。そこで、「汽船に国旗を認めず」(海軍報道)「米艦船たることを識別することあたわずして」(海軍公表)という「誤認」まで粉飾して公表して、陳謝するということになった。
こう考えると、支那方面艦隊司令部が、パナイ号撃沈の事実関係を認定するための現地調査も細部調査も何もせずに即座に撃沈の事実を認める大決断を下し、謝罪する措置にふみきったいきさつが、矛盾なく理解できる。」と断じています。
ここまでは、基本的に笠原の指摘どおりでしょう。
しかし、ここから先の記述は問題だらけです。
「「誤認」にはそう「誤認」するにいたる経緯があり、理由があり、原因がある。・・・
その第一が、・・・海軍が<行った>・・・海上封鎖であった。・・・
<これに対し、>中国側が外国船偽装あるいは外国船を利用して、物資や兵器、兵員を輸送するケースがあった<ところ、それは>違法といえるかもしれないが、・・・<それは、>窮地にたたされた中国が「自衛」のためにやむを得ず行ったものである。
しかし、このことが現地日本軍に・・・流布され、陸海軍の部隊指揮官の間に「船舶の国籍いかんを問わず撃滅せよ」という認識と心理が広範に存在したことが、「誤認」を必然的なものにした要因になったといえよう。
→(既述にして、後述もするところの、)退避勧告まで日本側がしていた以上、戦闘区域内にとどまっていた第三国艦船が、無害であることを日本側に積極的に開示しない限り、それを攻撃の対象とすることに何ら問題はないのであって、笠原の主張は言いがかり以外の何物でもありません。(太田)
第二は、・・・米英恐れるに足らずという海軍の慢心が、・・・しだいに英、米などの在華権益を駆逐しようという意図さえ含むようになり、空爆作戦による外国人の施設・財産・生命の侵害に対して無神経になっていた<のも要因になったといえそうだ>。
→この笠原の主張は、完全に誤りです。
海軍は、そんな「慢心」があったどころか、陸軍よりもはるかに「英、米など」を恐れていたからこそ、(前述したように、)ヒューゲッセン事件の時にはやってもいないのに玉虫色の解決に甘んじたのですし、(後述するように、)パナイ号事件の時には米国艦船ではないと「誤認」したなどというウソを言ってまでして謝罪をしたのです。(太田)
「中支那方面軍司令官・松井石根大将はパナイ号事件の翌日の戦陣日記に、・・・「かかる危険区域に残存する第三国民ならびにその艦船が多少の側杖をこうむるのはやむなきことなり。いわんや我が方はすでにこの方面における戦場の危険を列国に予告しておきたるおや」と記している。・・・さらに松井はレディーバード号事件に対してイギリス政府に謝罪した日本政府を、うろたえすぎだと批判し・・・たのである。」(206~208)
→ここは、まさに、全面的に松井の言うとおりです。(太田)
「<しかし、>パナイ号は日本側の警告にしたがうかたちで、戦闘区域から南京上流に避難していたところを爆撃されたのである。松井はおそらくパナイ号が撃沈された位置と状況を正確に知らなかったと思われる。」(208)
→笠原は、「南京付近戦闘経過要図」程度の戦場図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nanking_1937.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
すら頭に入っていないのか、知っていてあえて筆を捻じ曲げているのかどちらかでしょう。
ただただ、笠原を軽蔑するほかありません。
パナイ号事件が起こったのは12月12日午前ですが、その翌日の13日の午後4時に国崎支隊が南京の対岸の浦口に到達し、
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/nanking-jiken-9-3.html
ここに日本軍による南京包囲網が完成しています。
同支隊が長江を舟艇で渡河した期日はこの典拠だけでは分かりませんが、渡河地点は南京より上流約60km・・私が目分量で測った・・であり、これだけでもパナイ号が戦闘区域内にいた可能性が高いと言えます。
より決定的なことがあります。
同支隊隷下の部隊だと思われますが、橋本率いる野戦重砲第13連隊が、渡河地点より更に約30km上流の南京から100km弱・・私がやはり目分量で測った・・の蕪湖
https://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=embed&hl=ja&geocode=&q=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%AE%89%E5%BE%BD%E7%9C%81%E8%95%AA%E6%B9%96%E5%B8%82&aq=0&sll=31.980123,120.863342&sspn=1.353542,1.208496&vpsrc=6&brcurrent=3,0×0:0x0,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%AE%89%E5%BE%BD%E7%9C%81%E8%95%AA%E6%B9%96%E5%B8%82&ll=31.372399,118.391418&spn=0.703508,1.370544&z=9
で残敵掃討戦を行っている最中に、パナイ号事件と同じ12月12日に、レディーバード事件を起こしていることです。
この部隊は野戦重砲連隊ですから、榴弾砲を持っていたはずであり、同砲の最大射程は10km前後である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%80%E5%BC%8F%E5%8D%81%E7%B3%8E%E6%A6%B4%E5%BC%BE%E7%A0%B2
ことから、南京から長江上流100km超までは、陸軍だけをみても、南京攻略戦の戦闘区域(交戦地域)であったと言えそうであり、そこに、航空機部隊もからむのですから、長江上流45kmにいた(しかも、南京に向けて航行していた)パナイ号は、どちらかと言えば戦闘区域の中心に近い位置にいた、とさえ言えそうです。
そもそも、日本軍は、蕪湖を12月9日くらいには既に落としています(注36)。
(注36)NYタイムスのF・ティルマン・ダーディン記者の記事。
「<日本軍は、>十二日<に>・・・首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など二、三の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだのである。」(12月17日上海米国船オアフ号発)
「日本軍は蕪湖を攻略し、蕪湖-南京間をまる三日で走破して首都の城内に入ったのである。日本軍はまず南京上流の右岸を進み、蕪湖を攻略した後、長江河岸を除くあらゆる地点から中心の南京に向かい半円形を描くようにして進入することができた。」(上海12月22日発航空便)
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html
一体その時、パナイ号は蕪湖の上流、下流、どちらにいたのでしょうか。
いずれにせよ、蕪湖が日本軍の手に落ちた、すなわち、蕪湖までが戦闘区域に入ったことを、パナイ号は9日の時点で知るところとなっていたはずです(注37)。
(注37)その後のパナイ号の動きは以下の通りだ。
「<12月9日の>木曜日・・・中国当局から事態の悪化を告げられた残留外国人外交官 ― アメリカ大使館先任二等書記官ジョージ・アチソン・ジュニア、二等書記官J・ホール・パクストン、武官補佐官フランク・ロバーツ大尉らを含む ― は、木曜日夜、河岸に脱出し、下関からボートに乗り難を逃れた。アメリカ人はアメリカ砲艦パナイ号に乗船した。・・・
<10日の>金曜日・・・、外国人外交官らがしばらくの間岸辺に上陸していたが、中国軍当局から新たな警告を受けて、午後三時それぞれの船に帰還した。それからまもなく、長江左岸<(=対岸)>の浦口を空襲していた爆撃機が、パナイ号からわずか200ヤードしか離れていない水中に爆弾を投下した。J・J・ヒューズ少佐はそれからすぐに、艦を1マイル上流の三■(さんずいに又)河に移動した。・・・
パナイ号は<10日の>金曜日から<11日の>土曜日の午後まで三■(さんずいに又)河に留まり、河岸に建つ英国アジア石油会社の電話を通じて城内に残留しているアメリカ人と連絡をとっていたが、近くにある中国軍陣地を狙う日本軍の長距離砲撃により、土曜日の午後には三■(さんずいに又)河停泊は難しくなった。外交官と難民を乗せたパナイ号は南京を離れ、戻ることはなかった。」(F・ティルマン・ダーディン(NYタイムス)記者による上海12月22日発航空便)
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html
こうして四囲が戦闘区域になってしまってからも、(米大使館員達が、すぐ乗船せず、しかもすぐに出航させなかったせいだと思われますが、)パナイ号が、2日近くを空費し、しかも、10ノットで航行したとしても、6時間余で完全に戦闘区域外に出ることができたはずなのに、遡上することを決めた後、なお半日以上戦闘区域内にとどまっていたというのは、自殺的愚行以外の何物でもありません。
砲撃を受けたので引き返した、ということのようですが、空爆や砲撃を受けた後に遡上することにしたのですから、砲撃を受けても、少なくとも戦闘の中心地域である南京方面へと引き返すべきではありませんでした。
(軍人というものは時間や位置関係をとりわけ重視するところ、)当然のことながら、松井中支那方面軍司令官が、以上のような時間的経緯や位置関係の概略を知らなかったわけがないのです。(太田)
「パナイ号撃沈の報に強い衝撃をうけたローズベルト大統領は、12月13日天皇裕仁宛に抗議書を送った・・・。しかし、天皇は広田外相からその親書を渡されることなく、12月14日に南京陥落を喜ぶ勅語を下賜した。」(210)
→広田外相は責任回避のためにそうしたとしか思えませんが、これもまた、広田の懲戒免職に値する職務懈怠ではないでしょうか。
広田率いる外務省は、抗議書の件を、首相はもちろんですが、陸海軍にも伝えていなかった可能性が大です。
陸海軍に伝えれば、侍従武官等から天皇にそのことが伝わり、天皇から二重に叱責を食らうことを覚悟しなければならないからです。
この情報が(恐らく)首相や陸海軍に伝達されていなかったことは、以降の内閣の戦争指導に微妙に影を落とすことになったのではないでしょうか。
この時点で、日本の外務省はかくも堕落してしまっており、それが敗戦を経て回復することなくそのまま現在に至っている、といったところでしょうか。(太田)
(続く)
パナイ号事件(その17)
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