太田述正コラム#6304(2013.7.2)
<世俗化をもたらした宗教改革?(その3)>(2013.10.17公開)
→この、欧州におけるエウセビオス的進歩史観とアウグスティヌス的不可知論史観のどちらとも異なった史観を、アングロサクソンは、自分達の歴史について抱いていました。
すなわち、ノルマンコンケスト以前の、いわゆるアングロサクソン時代を理想化し、常にそこへと回帰しようとするところの、不変史観ないし復古史観です。(太田)
(2)宗教改革
「ルターとカルヴィンによって掲げられた諸告発は意義があり、それは、カトリック教会をその正しい考えへと復帰させることを狙った保守的叛乱だった。
しかし、急進的宗教改革の精神的ジャコバン派達の間に叛乱の陶酔的精神が広がるにつれて、事態は手に負えなくなった。
彼らこそ我々の真の建国の父達なのであり、彼らは、首尾一貫した一連の道徳的神学的諸教義ではなく、我々の時代を特徴づけるところの、腐食性の多元主義を我々に遺贈したのだ。
急進主義者達は、秘跡や聖遺物の必要性を否定した。
これらは普通の信者達が信じていたものだったが、その代わりに、彼らは、自分達が理解する用意のなかったところの、新旧の聖書を手交された。
「聖書のみ(Sola scriptura)」に加えて、誰でも精霊によって満たされることができるとの観念は、全ての急進的宗教改革者を、自分自身が聖パウロになれるのであると鼓吹し、次いで彼らは、その隣人達に網を置いて自分に付き従うよう要求した<(注4)>。
(注4)「聖書のみ」、「信仰義認」、「万人祭司」は宗教改革におけるプロテスタントの三大原理
http://ejje.weblio.jp/content/Sola+scriptura
・・うち、「聖書のみ」は形式原理、「信仰のみ」(信仰義認)を内容原理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E7%BE%A9%E8%AA%8D
・・であるところ、この三大原理をこの順序で叙述したもの。
<その結果、>意見の相違が爆発的に生じ、戦争がもたらされ、今度はそれが宗教国家(confessional state)を生誕させ、それがより多くの戦争をもたらした。
近代の自由主義は、これらの諸紛争に対処するために生まれ、まさに対処した。
しかし、その代価は高かった。
すなわち、それは、寛容の制度化を最高の道徳的価値として要求したのだ。
19世紀のカトリック教会は、この総体を拒否し、自らの城壁の中にしけこみ、その知的生活は衰亡し、教義(dogma)は化石化した。
こういうわけで、我々の中の残りの者は、混乱し、不満足な超多元主義的で消費者中心の教義的に相対主義的な今日の世界にどんどん深く沈んで行くという状況へと追いやられた。」(E)
「宗教改革が起こると、非正統的な宗教的信条のゆえに5,000人の欧州人が死刑を宣告され、宗教諸戦争が数百万人の死を生み出すこととなった。」(A)
「16世紀のプロテスタント達は、「聖書のみ」がキリスト教教義(doctrine)の基盤でなければならないと執拗に主張した時、何世紀もの伝統と袂を分かつこととなった。
残念なことには、彼らは、すぐに、異なった人々は同じ聖書から異なった諸教義を導き出しうることを発見した。
グレゴリーの筆致を借りれば、「プロテスタントが聖書に訴えたことだけで、キリスト教的真理に関して競い合う諸主張という、歓迎されざる多元主義が生み出された」のだ。・・・
結局、プロテスタントの諸集団(もカトリックも、特定の集団が)自分達による聖書の特定の読み方へと賛同者を糾合する唯一の方法は、それを政治権力によって裏付けることだった。
<ちなみに、>「権威主義的な(magisterial)」宗教改革者達とカトリック教徒達はそうしたが、「急進的」宗教改革者達はそうしなかったところだ。・・・
今日もなお残っているところの、彼らが採用した解決方法は、宗教的寛容の政策だった。
この政策は、諸法に謳われ、国家権力によって強制されることとなったのだ。・・・
しかし、グレゴリーは、宗教的寛容という「解決方法」は、欧米人の多数がキリスト教の宗教的諸信条と道徳的諸原則の中核的な一揃いを実際に依然共有している場合においてのみ機能する、と強く主張する。」(B)
「「聖書のみ」の失敗は、16世紀においてさえ、速やかに多くの人々によって認識され、この新たな神学上の袋小路を乗り切る(circumnavigate)ための若干の人々による試みがソラ・ラティオ(sola ratio)ないしは「理性のみ」、の提案だった。
しかし、不幸なことに、理性のみ、とそれによる生活全領域の世俗化は、成功的な人間社会のために必要な人生諸問題(Life Questions)に係るいかなる種類のコンセンサスへの到達にも、これまた劇的に失敗した。
「聖書のみ」によって創造され、「理性のみ」によって矯正されるどころか悪化させられた超多元主義により、多くの現代の人々が、全ての真理は相対的で全ての道徳性は主観的である、と結論付けるという結果をもたらし、グレゴリーが呼ぶところの「何でもありの王国(Kingdom of Whatever)」をもたらしたのだ。
こうして、「プロテスタンティズム」の「聖書のみ」とその世俗的類似物たる「理性のみ」は、どちらも、(どこかに行ってしまったわけではないが、以前の卓越した地位に比して相対的に脇役となったところの、)ローマ・カトリシズムに対する、首尾一貫した、機能しうる代替物を明瞭に打ち出す(articulate)諸試みに失敗したのだ。」(F)
「これが、我々がヴィッテンベルク(Wittenberg)<(注5)>からウォルマート(Wal-Mart)へと至ることとなったことの次第なのだ。」
(注5)旧東独のザクセン=アンハルト州に属する小都市。「1517年、ヴィッテンベルク大学教授のマルティン・ルターが大学内の聖堂の扉に『95ヶ条の論題』を提示したことが宗教改革の口火を切ることになった。・・・以降のヴィッテンベルクは宗教改革における重要な根拠地となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
(続く)
世俗化をもたらした宗教改革?(その3)
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