太田述正コラム#6308(2013.7.4)
<世俗化をもたらした宗教改革?(その4)>(2013.10.19公開)
 「グレゴリーは、宗教改革の近代的な子供達として6つの兄弟姉妹を同定する。
 それは、科学と宗教の間の敵対的関係、欧米社会の超多元主義、宗教の民営化(privatisation)、近代諸国家内における道徳的諸分裂(divisions)、資本主義と消費者主義(consumerism)の共生、そして諸大学の世俗化だ。」(C)
 「彼は<ある>章を、マックス・ヴェーバーの主張であるところの、「近代的で教育ある人は、宗教的信条を持たない必要がある。なんとなれば、科学は神抜きの自然界を開示するものであるからだ。」についての議論から始める。」(B)
 「マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』<は、>正しくはなかったが、それにもかかわらず素晴らしかった。」(C)
 「偉大なドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーは、彼がそう呼んだところのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とを関係付け(link)ようとした。
 大部分の学者達は、ルターもカルヴィンも資本主義や高利貸に対して、弁護するどころか、法王庁よりも厳しい姿勢をとったとして、ヴェーバーの解釈に抵抗してきた。
 <実際、>ルターとカルヴィンは、法王庁について、資本主義や高利貸に便宜(accommodations)を図った、と酷評したものだ。
 グレゴリーは、ヴェーバーのテーゼの、はるかに精緻な改訂版を提供する。
 グレゴリーにとっては、決定的な遷移は、個人的動機付け(motivation)に係る信条への動き(movement)だったのだ。
 失われたのは、共有された諸責任に立脚したところの、純粋なコミュニティの中でいかに愛が作用するかについてのあらゆる証明だったのだ。
 個人的救済に関心があったことから、宗教改革は、諸コミュニティ、友人達、そして諸家族を蔑ろにした(at the expense of)ところの、個人的富化(individual enrichment)の強迫観念への道を開いたのだ。
 こうして、この世界は、…モノ(stuff)で溢れかえることになった。
 グレゴリーの周到な説明において、オランダは近代なるものを発明したのだ。
 それは、単に宗教的寛容を意味しただけでなく、そのコインの裏面をも意味したのだ。
 すなわち、物質的集積と金融的に駆動されたところの、アムステルダムのチューリップ狂騒<(注6)>のような投機的マニア達に対する脆弱性をも意味したのだ。
 (注6)Tulip mania。「オランダ・・・で1637年に起こった世界最初のバブル経済事件である。オスマン帝国から輸入されたチューリップの球根に人気が集中し、異常な高値がついた。その後、価格は100分の1以下にまで下がり、オランダ諸都市は混乱に陥った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB
 このオランダ・モデルは、米革命の間に、政治的にも知的にも極めて異なっていた、トマス・ジェファーソンやジャームズ・マディソンのような人物達によって採用された。
 グレゴリーが書いているように、そこから、「意味、道徳性、諸価値、諸優先順位、そして目的に係る真理の諸主張に関する、現代欧米の超多元主義」へは一直線だった。」(A)
→近代なるものは発明されたものではなく、アングロサクソン文明が近代なのだ、というのが私のかねてよりの指摘であることはご承知の通りです。(太田)
 「プロテスタント達が神学に係る意見の合致を見ることができなかったことと、彼らによる秘跡性(sacramentality)の一般的拒絶の下では、神はもはや全くもってお呼びではない(be not a part of the picture)、と多くの人々が単純な結論を下すに至ることは不可避だった。
 或いは、神がいたとしても、彼は、要ははるか昔の存在であって、この世界が回るように設定をした後引退してしまったのだ。
 <こうして、>理神論(deism)<(注7)・・あるひょうきん者が呼ぶところの、「微笑した無神論」が生まれたのだった。
 (注7)「神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。・・・
 1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊して、自然宗教の5つの基本命題をあげた。それは(1)神の存在、(2)神を礼拝する義務、(3)経験と徳行の重要性、(4)悔悟することの正しさ、(5)来世における恩寵と堕罪の存在を信じること、などである。・・・
 1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%A5%9E%E8%AB%96
→理神論は、キリスト教以前のブリトン人の自然宗教観を受け継いだアングロサクソンの宗教観に基づき、「外来」のキリスト教を排斥するという無意識的目的のために、イギリスにおいて、打ち出され、論議された考え方である、というのが私の見解です。(太田)
 <神の>多くは、結局微笑を止めることとなった。
 神は我々と似た何かであって、かつ、科学的諸仮説が彼に哀訴する必要もなくなったことから、多くの人々は、要は神など存在しないと思うようになったのだ・」(G)
 「欧州では、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)<(注8)>の近代的な研究(research)大学<(注9)>は、宗教的諸問題や宗教団体との関係に背を向け、米国では、腰抜けのリベラルなプロテスタント達によって統治された宗教諸大学は、結局、このドイツ由来のウィルスに屈し、今日の反合理論的(anti-rational)<=経験論的(empirical)(太田)>で何でもありのポストモダニズムを大量に生じさせることとなるところの、中心を欠いた<(uni-versityならぬ)>multi-versityを生み出した。」(E)
 (注8)1767~1835年。プロイセンの哲学者、言語学者、政府職員、外交官。フンボルト大学(ベルリン大学)の創設者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_von_Humboldt
 (注9)「中世の西<欧>において、大学は、神学部(キリスト教聖職者の養成)、法学部(法律家の養成)、医学部(医師の養成)の3つの上級学部と哲学部ないし学芸学部との4学部からなり、専門職を養成することが大きな役割であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 すなわち、フンボルトは、専門職養成大学ばかりであったところへ、研究/研究者養成大学を導入した、という趣旨。
 「グレゴリーは、キリスト教が、欧州世界の制度的・政治的中心としての役割を失ったことを嘆き、プロテスタントとカトリックの国民諸国家間で諸戦争が勃発したという先例を踏まえ、国民諸国家は、結局、方程式の中から宗教を消去すべきであると決めた、ということを銘記する。
 最初にオランダ共和国において、次いでより広範に、諸国家は、キリスト教的道徳性の若干のバージョンをおおむね維持しつつも、宗教的諸問題に関し中立性を装うふりをし始めたのだ。」(G)
(続く)