太田述正コラム#6346(2013.7.23)
<日支戦争をどう見るか(その4)>(2013.11.7公開)
(5)毛沢東
「日本の侵攻がなかったとすれば、毛沢東が<最終的に、政権を奪取する形で>勝利を収めることはできなかったかもしれない。」(A)
→第二次国共合作が対日戦争を目的として成立した以上、日支戦争が、早晩、支那側から仕掛けられて始まることは避けられなかったのであり、このような思考実験を行う意味は全くありません。
毛沢東の勝利に最も貢献したのは、黒幕のソ連はさておき、国共合作下の蒋介石政権に対して精力的に軍事支援を行うとともに、(中国共産党との来るべき決戦に備えて)兵力温存策をとりたかった蒋介石政権に日本軍と戦って兵力を損耗させることを余儀なくさせた挙句、日本降伏後、蒋介石政権への軍事支援を打ち切ったところの、米国です。
一体、米国はどうして、このような、マッチポンプ的ないしは骨折り損の草臥れ儲け的な愚行をやらかしたのでしょうか。
後で、私の米国の当時の東アジア政策論を蒋介石論と併せて申し述べますが、蒋介石政権と米国は、専制政権と自由民主主義的国家という違いこそあれ、同病相憐れむ似た者同士であった、というのが私の言いたいことです。(太田)
「ミターによれば、毛沢東の残虐と復讐の諸行為は、戦争が生ぜしめたものだ。
しかし、それは事実ではない。
毛沢東と彼の主拷問者たる康生(Kang Sheng)<(注9)>は、スターリンのソ連から送りこまれた共産主義者達から学び、既に1930年代初期には、何千人もの内部の敵を苛(さいな)めていた。」(I)
(注9)1898~1975年。「ソ連滞在中に内務人民委員部 (NKVD) から「反革命分子」に対する拷問・処刑を学び帰国後、中国共産党情報機関の責任者となり毛沢東の片腕として強大な警察権力を行使し、・・・「中国のジェルジンスキー」あるいは「中国のベリヤ」と呼ばれる。・・・1942年から1943年頃には毛沢東と劉少奇の下で「整風運動」と称された粛清の実行に当た・・・り、拷問による自白を証拠として、多くの党員にスパイ、裏切り者、内通者とのレッテルを貼り赤色テロを行った。・・・1966年5月<に>・・・文化大革命が発動され<ると、>康生は中央文化革命小組顧問を任され、中央政治局常務委員になった。1968年、中国共産党の情報機関である中央調査部の指導権を獲得、実権派・右派分子・修正主義者の粛清の陣頭指揮に当たることとなった。死刑執行人として恐れられ、無数の冤罪をでっちあげ、多くの共産党員や幹部を迫害した。・・・林彪失脚後、1973年8月の第10回党大会で・・・中国共産党中央委員会・・・副主席に<まで登りつめ>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%94%9F
→私から見てツッコミどころ満載のミターなのですから、書評子達にも、それぞれの観点からどんどんツッコんで欲しかったところですが、それをまともな形でやってくれたのは、このIの書評子くらいです。(太田)
「日支戦争を特徴づけるもの(distinguish)は、それが、真に支那の近代への区切り点(breakpoint)を提供したことだ。
あらゆる種類の長年来の諸伝統、土地所有諸形態、そして経済諸構造が永久に変化した。
支那の領域の大きな部分が侵攻され占領されたことは恐ろしく破壊的(disruptive)だった。
例えば、地方エリート達は、外国権力によって取って代わられ、難民となった自分達自身を見出した。
権力基盤が突然変化し、共産主義革命への道を舗装した。・・・
戦争の帰結が共産主義革命であったということはニュースでも何でもない。
この本の新しさは、共産党が統治(governance)のための秘密の調理法を持っていたのに対し、国民党、及び、敵国の占領軍に協力する人物たる汪兆銘の政府、が失敗だったからである、との観念に抗する主張したことだ。
実は、研究者達は、新しい史料群を見つめており、それらの史料群は、図柄はもう少し複雑であったことを証明しているのだ。
それぞれ、国家とその人民をより緊密に結びつける諸要素を持っていたところの、三つの異なった型の近代がそこにあった、と私はこの本の中で主張したのだ。」(G)
→ここで、形の上では、私のかねてよりの(日支戦争は、三つ巴の戦いであったとの)主張に近いことがミター自身によって述べられていますが、本の中で、ミターは、この主張をどれだけ具体的に展開しているのでしょうか。
問題は、汪兆銘政権における「近代」をミターがどう定義しているかです。
私には、蒋介石政権のファシズム、中国共産党の共産主義に対するに、自由民主主義と定義しているとは思えません。
そう定義した瞬間に、ミターのこの本の根本的主張・・蒋介石政権を高く評価すべきだ・・が音を立てて崩れてしまうからです。(太田)
「ミターの見るところ、中国共産党は、日本軍に対して、たった一つの主要な戦闘<(注10)>の他は、いくつかの限定的なゲリラ諸活動を<もっぱら>行った。
(注10)百団大戦(コラム#5892)。「1940年8月から12月にかけ、山西省・河北省周辺一帯において、中華民国国民革命軍に参加中の中国共産党軍と、大日本帝国陸軍の間で起きた一連の戦い。「百団大戦」は中国側の呼称で、中国共産党軍の参加兵力が約100個の「団」(連隊に相当)とされることに由来する。小部隊でのゲリラ戦を得意とした中国共産党の八路軍が、初めて行った大規模な攻勢である。日本側は、第一期・第二期晋中作戦などの掃討作戦を発動して対抗した。中国共産党軍は日本軍の警備部隊や施設に損害を与える一定の戦術的成功を収めたが、作戦の戦略的意義については評価が分かれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9B%A3%E5%A4%A7%E6%88%A6
毛沢東は、蒋介石とは違って、多くの人々を、不適切にかどうかはともかく、統治したり補給したり、或いはまた、国軍を増強する必要がなかった。
毛沢東は、敵国の占領軍に協力する汪兆銘の体制に対処する必要もまたなかった。」(I)
「ミターが、中国共産党下の延安(Yanan)についての<ソ連の通信社の>タス(Tass)の代表にしてコミンテルンの工作員であったピョートル・ウラディミロフ(Peter Vladimirov)の描写<(注11)>を<この本>に収録したのは評価できる。
(注11)邦訳が出ている。『延安日記―ソ連記者が見ていた中国革命 』(上下)(1975年)
http://www.amazon.co.jp/s?_encoding=UTF8&field-author=%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%83%95&search-alias=books-jp
彼は、「抑圧的、窒息的な空気が党の中にあった。「非存在の諸罪から自分達自身を贖う」ことを急ぐ余り、「人々はいかなるイニシアティヴも放棄した」と見て取った。
ミターは、支那人達が、そうしない者に何が起きるかを知っていることから、一般にその時の体制を称賛するものであることを自覚できるほど支那でたくさんの支那人達に出会ってきていない可能性があるせいか、「ある体制が抑圧的であると同時に、その体制下の人々の間で純粋に人気があることがありうる」などということを強く主張するのだろう。 もとより、ミターの言うことはありうることだ。
しかし、毛沢東の支配の下においてはそれはあてはまらない。
延安時代よりずっとのちの生存者達、それはしばしば、毛沢東によってひどい目に遭わされた者達の「怒れる未亡人達」だったが、彼女達は、米国人学者であるトニー・サイチ(Tony Saich)とデーヴィッド・アプター(David Apter)に、自分達の毛沢東のゲリラ拠点(lair)の主たる記憶は恐怖である、と語ったものだ。」(I)
→Iの舌鋒は鋭いですね。
要するに、毛沢東はソ連の筋金入りのスターリン主義者ですら呆れるほどのスターリン的恐怖政治を最初から行っていたわけです。
言うまでもなく、北朝鮮の金王朝の歴代「国王」もまたそうしてきたところです。
前に何度も指摘したことを繰り返しますが、中共が毛王朝にならなかったのは、金日成と違って、毛沢東は、徹底したエゴイストであって、自分の家族や一族のことなど全く眼中になかったからに過ぎません。
米国は、勝手に惚れ込んでいた蒋介石を、一転軽侮するに至った挙句、あろうことか、とんでもない極悪人に支那を熨斗付きで献上してしまった、ということです。(太田)
「この本は、毛沢東が究極的に成功を収めたのはどうしてか、について説得力ある説明を提供していない。」(A)
→このAの書評子は、本人はそこまで意識していない可能性が大ですが、ミターの一番痛いところを突いています。この書評子には、私の米国マッチポンプ/骨折り損の草臥れ儲け説をぜひ読んでもらって感想を聞いてみたいところです。(太田)
(続く)
日支戦争をどう見るか(その4)
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