太田述正コラム#6371(2013.8.5)
<日支戦争をどう見るか(その15)>(2013.11.20公開)
二、動物保護
 鯨類の話と重なる部分がありますが、動物保護の点で、米国での考え方がどれほど大きく変わりつつあるかを振り返ってみましょう。
 「何世紀も前、欧州では、たじろぐことなく(without getting your eyes scratched out)、猫を板に釘で打ち付け、頭をつついて殺すゲームがあった。
 今では、動物を拷問するのは犯罪だ。
 プリンストン大の哲学者であるピーター・シンガー(Peter Singer)<(コラム#5258)>は、1975年に画期的な本、『動物の解放(Animal Liberation)』を公刊したが、その考えは、当時、ドンキホーテ的であると面白がられたものだ。
 しかし、今日、こんな風になっていると<当時>誰が考えただろうか。・・・
 米国立公衆衛生研究所(National Institutes of Health)はチンパンジーを使った実験の大部分を中止する?・・・
 雌鶏への顧慮・・いや、より正確には、雌鶏に共感を抱く何百万人もの顧客達への顧慮・・から、バーガー・キングは檻に入っていない雌鶏が生んだ卵だけを買う・・・?
 今日では、動物の福祉を大幅に犠牲にして食物を極めて安く生産するところの、工場農法に疑問が投げかけられているのだ。・・・
 2013年においては、これまでに、雌豚が向きを変えることを許さない、交配木枠内で生んだ豚の肉を使うのを止める動きが出ている。・・・
 <また、>次第に多くの人々が、パテを生産するためにガチョウに強制給餌すること・・今ではカリフォルニア州では禁止されている・・への嫌悪感を共有するに至っている。・・・
 動物の諸権利を守るためにどこに線を引くかについてこそ意見の相違があるけれど、殆んど全員が今やどこかに線を引くべきことについては同意している。」
http://www.nytimes.com/2013/07/28/opinion/sunday/can-we-see-our-hypocrisy-to-animals.html?ref=opinion
(7月29日アクセス)
ここでも、極めて最近において、少なくとも米国でどれほど大きな変化が生じたか、驚きを禁じ得ません。
 (この方向性は必ずしも間違っていないのではないか、だから、これは米国のリベラルがいかに危険かの例証にはならないのではないか、と批判される方もおられるかもしれませんが、短期間に大きな変化が起こること自体が危険である、と私は考えます。)
 上掲引用文中に登場したシンガーは、ユダヤ系豪州人であり、豪メルボルン大卒後、英オックスフォード大で博士号を取り、現在米プリンストン大教授をしている人物ですが、「動物、大雑把に言って、脊椎動物はその振る舞い、人間との解剖学的な類似、進化上の共有から、苦しみを感じることができると考えられるからである。「ある存在が苦しみを感じることができる限り、その苦しみを考慮しないことは道徳的に正当化できない」と彼は主張」しているところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
「苦しみを感じる」かどうかを、動物差別階梯において人間に準ずる高等動物であるかどうかのメルクマールとする、という点で、彼の発想は、典型的な米国のリベラル的発想であると言えるでしょう。
 だからこそ、1946年生まれの彼を、米プリンストン大学が招請し、彼がそれに応じ、1999年以降、同大に「定着」することとなった、
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Singer
と私は見ています。
ところで、(シンガーらの影響を受けて)動物保護に関して現在の米国が向かいつつある到達点は、一見、下掲のような日本の江戸時代までの状況と類似しているように見えます。
 「日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた<が、>仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになってい<き、>・・・おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。・・・
 獣肉食の禁忌のピークは、生類憐れみの令などが施された17世紀後半の元禄時代である。・・・<(かかる背景の下、日本では、>1988年・・・に<なってようやく>実質供給タンパク質量で魚肉を逆転した<)>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8D%A3%E8%82%89%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 しかし、それは表見的な類似に過ぎないのであって、日本の本来の動物保護観は、種にかかわらず、人間との間で愛情によって結ばれた関係を取り結んだことのある動物の個体(やその子孫)は殺傷したり虐めたりしてはならない、というものであり、種によっておおむね機械的に線引きをする、というシンガーらの発想とは似て非なるところの、まさに人間主義的な動物保護観(注37)であった、というのが私の考えです。
 (注37)欧米には、中世において、人間に加害した動物に特別に人間に準じる地位を与えて、裁判にかける、いわゆる動物裁判(animal trial)の制度があった。
 (「史料上確認できる動物裁判は、有罪となったものだけでも合計142件記録されている。この裁判は12~18世紀の時代に見られ、特に動物裁判が活発だったのは15世紀から17世紀の間。その3世紀における裁判は合計122件である。」)
http://en.wikipedia.org/wiki/Animal_trial
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%A3%81%E5%88%A4
 これは、人間との間で加害という関係を取り結んだところの動物の個体を、殺傷したり虐めたりしたところで、それは日常的に人間が動物に対して行っていることであるから、報復したことにはならないので、加害行為を行った動物に関してのみ、特別に責任能力を認め、裁判を行った上で、この個体を殺傷したり虐めたりすることにした、ということであり、いわば、擬人間主義的(=倒錯的に人間主義的)な動物報復観であった、と言えよう。
 今後、動物性蛋白質の工場生産が一般化して行くと考えられるところ、日本が、世界をかつての日本の動物保護観へと導いて行くことが望まれるのではないでしょうか。
(続く)