太田述正コラム#6399(2013.8.19)
<日支戦争をどう見るか(その29)>(2013.12.4公開)
<脚注:人間主義の具体的説明>
京都学派の哲学には人間主義(協同主義)の具体的説明が欠けていると指摘したところ、意識せずして、その重要な属性の具体的説明を行っていたのが谷崎純一郎(1886~1965年)だ。
彼が、東大(文)在籍中に、「和辻哲郎らと<文芸雑誌の>第2次『新思潮』を創刊し」ていることは興味深い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E
「『陰翳礼讃』・・・は、谷崎潤一郎の随筆。「経済往来」<1933>年12月号・<1934>年1月号に掲載。
まだ電灯がなかった時代の今日と違った美の感覚を論じたもの。こうした時代西洋では可能な限り部屋を明るくし、陰翳を消す事に執着したが、日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用する事で陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の芸術の特徴だと主張する。
こうした主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、化粧、能や歌舞伎の衣装など、多岐にわたって陰翳の考察がなされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E7%BF%B3%E7%A4%BC%E8%AE%83
(7月25日アクセス)
(この谷崎の「陰翳」を「曖昧」と言い換えたのが呉善花(1956年~)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%96%84%E8%8A%B1
だ。
「日本人は「物事をはっきり言わない」「自主性がない」などと非難されることが多い。
だが・・・著者はいう。むしろ曖昧だからこそ、日本は世界有数の安全で豊かな国になれたのだ。これからは世界全体に、調和がとれた人間関係、環境への順応性を生み出す「曖昧力」が求められる時代になるだろう。
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%9B%96%E6%98%A7%E5%8A%9B-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%91%89-%E5%96%84%E8%8A%B1/dp/4569708293
(7月25日アクセス))
これは、アブラハム系宗教の影響を大きく受けた、(イギリスを除く、地理的意味での)欧州、米国、イスラエル、そしてイスラム圏における、区別・差別の論理(敵味方峻別の論理を含む)とは対蹠的である、言えるだろう。
なお、具体的事例としては、庶民を含む、日本人の日常的生き様を取り上げることが考えられるが、残念ながら、当時、そのような取り組みを行った論者を私は知らない。
現在であれば、人民網が日本人の日常的生き様を3日にあげず紹介しており、これらの記事を纏めれば足りそうだが・・。
——————————————————————————-
(5)再びローズベルト政権について
以上、日支戦争/太平洋戦争における、「ソ連/中国共産党・蒋介石政権・米国」対「日本」という構図がどうして生まれたかを説明してきたわけですが、米国のローズベルト政権から見れば、こんな構図は、米国を全球的覇権国へと変貌させる、という戦略構想を実現するための手段の一つに過ぎなかったのであって、この際、(これまた、既に累次言及してきたところの、)この戦略構想そのものについて振り返っておく必要があります。
用いることにしたのは、マイケル・フリラヴ(Michael Fullilove)の新著、『使命との邂逅(Rendezvous With Destiny)』の3つの書評です。
A:http://articles.latimes.com/2013/jul/06/opinion/la-oe-fullilove-obama-needs-pivot-toward-asia-20130707
(8月2日アクセス(以下同じ))
B:http://www.nytimes.com/2013/07/28/books/review/rendezvous-with-destiny-by-michael-fullilove.html?pagewanted=all&_r=0
C:http://online.wsj.com/article/SB10001424127887324425204578601600288052048.html
なお、フリラヴは、オーストラリアの評論家であり、豪シドニー大学と豪ニューサウスウェールズ大学卒後、ローズ奨学生としてオックスフォード大に留学し、修士と博士を取得した、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Fullilove
「人間事象(human events)には神秘的な周期(cycle)がある。ある世代にあっては所与の条件に羈束され<たままで足り>る。<しかし、>他の世代にあっては、<所与の条件を打ち破る>作為が求められる。我々の世代の米国人は、<作為を求められる>使命と邂逅したのだ」、とローズベルトは述べている。(注53)
(注53)ローズベルトは、任命された大使達、及び米国務省のキャリア外交官達・・その大部分は共和党支持者で、彼の<抱く>優先順位群にそっぽを向いている(out of tune with)、と彼は思っていた・・の能力と忠誠心には殆んど信頼を置いていなかった。(B)
→最近言及しているように、この使命・・要するに米国の全球的覇権国化・・を「発見」し、米国民を「啓発」し、この使命に向けて米国民を「蹶起」させたのは、圧倒的少数派であったところの、ローズベルトとその一派たる、米民主党系のリベラル・キリスト教徒達の一部でした。(太田)
<オバマは現在アジアへ軸足を移しつつあるが、米国が>最後に成功裏に軸足を移したのは、欧州で大戦が勃発してから真珠湾爆撃の後に米国がこの戦争に参戦するまでの1939年から1941年の間だ。
この期間中に、米国は、神経質で孤立主義的な中規模の大国から外に目を向けた全球的指導者へと自らを変貌させた。
1939年にドイツ軍がポーランドに進軍し<、英仏がドイツに宣戦布告し>た時点では、米国がドイツに宣戦すべきだと考えた米国人は40人に1人しかいなかった。 <(注54)>
(注54)「米駐英大使のジョセフ・P・ケネディ(Joseph P. Kennedy)は、ローズベルトに対し、この戦争に関わるなとしきりに促した。ドイツの軍事力は無敵であるとケネディは執拗に主張した。米国製の軍事装備を英国に送っても、ドイツの英国侵攻が成功した暁には、それはナチスの兵器庫の一部になってしまう、と」(B)
東西を二つの大洋に囲まれ、南北に非脅威的な隣国を持っている米国の人々は、外国の紛争や争いから自らを孤立させる傾向が歴史的にあった。
→何度も申し上げていますが、米加国境に関しては、「非脅威的」ではなかったのであり、間違いです。(太田)
米議会は、高い関税障壁を打ち立て、戦争当事国と商業的関係を持つことを禁じ、軍に資金を碌に与えなかった。
兵士達は、機関銃ならぬ箒でもって訓練をさせられていた。・・・
ローズベルトの偉大なる業績は、これらの諸制約を潜り抜け、分裂し、躊躇している米国を、欧州戦争へのより大きな関与に向けて動かすことだった。
1940年に、米国は再軍備と再動員を始めた。
夥しい演説、放送、声明、そして決定を通じ、ローズベルトは、孤立主義を米国における議論の辺境へと押しやり、戦争の危険をものともせず、国民的雰囲気を欧州の諸同盟国に対する援助を支持する方向に傾かせた。
→ローズベルトが、どちらも非合法であったところの、英諜報機関に米国内で自分の戦略への反対者つぶしを黙認下でやらせたこと、日支戦争中に蒋介石政権側に米空軍部隊を送りこんだこと、等のならず者的活動を行ったことに、この書評子は、従って恐らく著者のフリラヴも、目をつぶっています。(太田)
1941年には、彼は、英国とその帝国に対して軍事物資貸与(lend-lease)支援の奔流を送り、その後には、同様のことをソ連に対しても行った。<(注55)>
(注55)「ローズベルトの、第二次世界大戦中、<世界中を>動き回った外交官であったハリー・ホプキンス(Harry Hopkins)は、1941年に、ナチスのソ連侵攻の5週間後に、ヨシフ・スターリンと会った。
米国政府は、既に、戦闘中のソ連政府を援助することを決定していた。
しかし、その援助の中身(nature)はスターリンの存念(resolve)いかんにかかっていた。
米国による援助を、ソ連を屈服から一時的に救うだけのものにするか、それとも決定的なものにするか・・。
ホプキンスは、スターリンのヒットラーに対する「冷たく容赦のない(implacable)」怒りにではなく、兵站的細部に、その解答を発見した。
スターリンはアルミニウムを求めたのだ。
目前の敗北を恐れている指導者ならば、ただちに助けてくれるわけではない資材など求めないだろう、と彼は考えたのだ。」(C)
→英国に対する援助こそ無駄にはならなかったけれど、ソ連に対する援助は、回りまわって米国に対する脅威に転化したことを我々は知っています。
なお、ローズベルトが英国を支援し、ドイツに対して敵対的であったのは、英国が自由民主主義国家でドイツがファシスト国家であったからではありません。彼がつるんだ蒋介石政権だってファシスト政権であったからです。そして、ナチスが反ユダヤ政策をとっていたからでもありません。ローズベルト自身が反ユダヤ主義者であったからです。
単に、英国が衰退しつつある国家であり、ドイツが興隆しつつある国家であったことから、米国の全球的覇権国化のためには、英国と組んでドイツを叩くのが上策だ、という判断からでしょう。
幸か不幸か、ローズベルトの後継のトルーマン政権の時に、この米国の全球的覇権国化の夢は実現します。
それにしても、米国以外の人類にとってローズベルトが犯罪的だったのは、チャーチルのように、単に敵の敵であったためにやむなくソ連と組んだのではなく、ローズベルトが共産党音痴だったことから積極的にソ連と協力し、必要以上にソ連を強大化させてしまい、共産主義による東欧と東アジアの席巻をもたらしてしまったことです。(太田)
<また、>ローズベルトは、着実に大西洋における米軍の作戦を拡大し、ついには米国は、ドイツに対する宣告されざる海上戦争を行うに至るのだ。
<このように、>ローズベルトは、1939年から1941年の間、米国を長い旅に連れていった。
真珠湾への奇襲攻撃の時点では、米国は、既にその孤立主義的諸幻想を捨てていた。
米国人達は、団結していて、闘う準備ができていた。
大統領は、国を<こうやって>動か(carry)して行ったのだ。」(A)
→日本による対米開戦なかりせば、ヒットラーは対米開戦はせず、従って、米国は参戦できなかったことでしょう。
従って、「米国人達は・・・闘う準備ができていた」はひどい言い過ぎ、というものです。
それにしても、かくも決定的に重要な役割を果たした、日本、そして東アジアについて、(東アジアに隣接するオーストラリアの国民である)フリラヴが、完全に無視しているのは呆れるのを通り越して衝撃的です。(太田)
(続く)
日支戦争をどう見るか(その29)
- 公開日: