太田述正コラム#0201(2003.12.2)
<日本の植民地統治(その2)>
今回は、ケーススタディーとしてフィリピンをとり上げます。
フィリピンは米国の旧植民地であっただけでなく、先の大戦中三年間日本に占領された経験があります。
そのフィリピンで米国がどのような植民地統治を行ったかを、日本によるフィリピン占領との比較を通じて炙り出してみましょう。
参考にしたのは津野海太郎「物語・日本の占領」(平凡社文庫1999年。原著は朝日新聞社1985年)です。(ページは「頁」で示す。)これは実に面白い本です。津野氏は演劇人ですが、先の大戦中の日本によるフィリピン占領の実相が生き生きと描き出されています。
この本の記述を補足するため、括弧に入れた形で、Teodoro A. Agoncillo, History of the Filipino People, Garotech Publiching 8th edition, 1990 からの引用を付け加えることにしました。(ページは「PP」で示す。)(こちらの方の本は、私の1996年のフィリピン出張の際、最も定評あるフィリピン史の著作として、フィリピン陸軍士官学校校長のCarlos M. Canilao 大佐から贈呈されたものです。)
1 フィリピンにおける米国の植民地政策
(1)経済の従属化
「戦前のフィリピンはアメリカの自由貿易政策によって工業化をはばまれ、・・農産物のアメリカへの輸出と、アメリカからの工業製品の輸入に基礎をおく従属的な経済システムを押しつけられていた。」(コンスタンティーノ)(95頁)
「アメリカ合州国(ママ。以下同じ)の植民地となったフィリピンでは、砂糖、ココナツ油、タバコ、マニラ麻などの対米輸出用の農産物の生産・加工業が飛躍的に発展したのに反比例して、フィリピン人の日々の生活をささえる米穀生産は急速におとろえた。植民地に特有のモノカルチュア型経済の成立である。しかも、その肝心の農産物輸出でさえアメリカ経済の都合にあわせて勝手に制限され、・・フィリピンの大部分をしめる農村の生活はきわめて不安定なものになっていった。この過程でスペイン統治時代以来の地方ボス支配がますます強化され、小作農民は重税と借金のために息もたえだえの状態においこまれてしまう。」(220頁)
((上記とほぼ同じ記述の後、)過度に輸出志向の農業となったため、本来食糧輸出国であってしかるべきフィリピンは、食糧輸入国になってしまった。(PP362))
(2)精神の従属化
「われわれは自分たちだって工業化できるのだとは決して考えなかった。地理的条件と民衆の生来の性格からいってフィリピンは農業国である、と学校で教えられてきたからである。だからこそわれわれは、戦前の日本がすでに欧米と対等の商品を生産できるようになっていたのに、日本商品を軽蔑したのであった。アジアの一国である日本が米国、ドイツ、イギリスなどと並ぶ優秀性を獲得できるなどとは、とてもわれわれには信じられなかった。」(コンスタンティーノ) (96頁)
(利潤追求を内に秘めた、鳴り物入りのアメリカの利他主義(altruism)は、フィリピン人に自らのものは軽侮し、アメリカのものなら何でも賞賛する、という習性を植えつけた。(PP377-382))
「フィリピンの民話・・の多くが「すこぶる陰惨で、倫理に乏しく、とりとめのない」ことに嫌悪感をもった、<また、>「私は比島人の性格に一種の残忍性があるのだらうかなどとも考へた。・・友人<のフィリピン人>は、・・それは支配者の虐政に対する風刺であるといった。・・人をうまくだますことのできる者がいちばんえらいのである。」(火野葦平)(146-147頁)
(警察が武器の供出を日本軍に命ぜられるや否や、日本軍の姿がまだ見えないうちから、マニラでは老若男女を問わず、またその教育程度を問わず、市民が略奪合戦を繰り広げた。略奪はマニラ以外にも広がった。非倫理的行為が蔓延した。医者は身内でないフィリピン人には重症であっても薬を投与せず、その薬を転売して金儲けにいそしんだ。(PP399-400))
「エリート・・は無用の流血をさけるという名目で、<スペイン、アメリカ、日本と>新しい支配者<がやってくるたびに、そ>の命令にあわせて民衆の欲求をコントロールし、そのことによって従来の経済的、社会的、文化的な特権を維持しつづけようと<してきた>。」(184頁)
「1960年代のなかばごろから、・・フィリピンの歴史家たちは日本占領下のさまざまな「レジスタンス神話」・・がじつはマッカーサーとアメリカ合州国にたいする忠誠心の表明にすぎなかったのではないかという疑問を提出しつづけてきた。」(34頁)
「他のアジア諸国の抵抗運動とちがって、フィリピン人の抵抗は、ほとんど完全といえるほどに、米軍作戦の必要性、さらには太平洋地域で指揮をとるダグラス・マッカーサー将軍の指令に服従するものであった」(コンスタンティーノ)(35頁)
2 日本の占領がフィリピンにもたらしたもの
(1)米国の矮小さの露呈
「マッカーサーの逃走に失望したフィリピン人・・のあいだ<で>マッカーサーとアメリカ合州国の「裏切り」にたいする失望感がひろがっていた。」(38-39頁)
「アメリカ政府・・は・・アメリカ人の犠牲を最小限にとどめたまま戦争を終わらせるために、マニラその他の都市を無差別爆撃して、・・多くのフィリピン人を殺してしまった」(レクト)(190頁)
(戦後アメリカはフィリピンに経済・財政援助を行う条件として、フィリピン憲法に、アメリカ人に対し、フィリピンの天然資源採掘権に関し内国民待遇を与える規定を盛り込むことを要求した。(PP427))
(2)フィリピン自立化への動き
(スペイン人はフィリピン人にスペイン語を習得させないようにしたが、アメリカはフィリピン人に英語の習得を義務付け、政府の行う試験はすべて英語でおこなわれた。(PP371-372)やがてフィリピン人の多くは、フィリピンが東洋唯一のキリスト教国であるだけでなく、東洋で最も西洋化した国であることを自慢に思うようになった。(PP381)アメリカの上面だけを見て、フィリピンは物質主義に染まってしまい、詩人や思想家は馬鹿にされるようになった(PP383))
「<日本>軍政当局は、日本軍と大東亜共栄圏理念にたいする直接の批判でないかぎりフィリピン人の民族意識をみとめる、と公言した。・・タガログ語の奨励という占領行政のたてまえを文字どおりのかたちでつらぬく努力を惜しまなかった・・。」(122頁)
(日本軍政当局は、タガログ語の使用、教育を奨励するとともに、タガログ語及びフィリピン史の学校教育はフィリピン人教師が行わなければならないこととした。(PP397))
(タガログ語で文学作品が生み出されるようになると、田舎を舞台にするものが数多く出現した。これは以前には見られなかったことだった。(PP409))
「たしかに日本人は利己的な動機によってわれわれを東洋化しようとした。それはアメリカがかれら自身の動機によってわれわれを西洋化しようとしたことと同様である。しかし、われわれを人工的な西洋文化からひきはなそうとする動きにかぎっていえば、それはわれわれにとって正しく、よいものであった。」(コンスタンティーノ)(186頁)
(日本軍政当局は、フィリピン人のためのフィリピンの確立、を推進した。(PP395))
3 とりあえずの結論
総力戦を戦っていた日本には本格的なフィリピン占領政策、とりわけ経済政策を展開する余裕などなく、また日本がフィリピン占領を占領していた期間も余りにも短いものでした。
それでも以上からだけでも、どうやら、日本の異民族(フィリピン)統治の方法が、異民族(フィリピン)を宗主国(日本)に従属させる方向性を持っていなかったという点で、米国の異民族(フィリピン)統治の方法とは決定的に違っていたらしいこと、は分かります。
この日本の異民族統治のユニークさが、台湾人や朝鮮人の自立心と自尊心を確立ないし強化し、そのことが日本からの独立後の台湾と韓国の経済発展につながった、と私はとりあえず考えています。
それにしても、(フィリピンもイラクも、(日本ではない国を宗主国とする)植民地歴の長い国ですが、)日本の占領当時のフィリピンとフィリピン人の姿は、現在米国等の占領下にあるイラクとイラク人の姿とそっくりですね。どうやらその後のフィリピンが苦難の道を歩んだように、イラクもまた主権回復後、苦難の道を歩むことになりそうな予感がします。
(続く)