太田述正コラム#6495(2013.10.6)
<日本の「宗教」(その1)>(2014.1.21公開)
1 始めに
キリスト教ないしアブラハム系宗教を取り上げてきたので、ついでに日本の「宗教」を取り上げることにしましょう。
ジェイソン・アナンダ・ジョセフソン(JASON ANANDA JOSEPHSON)の新著『日本における宗教の発明(The Invention of Religion in Japan)』の概要を、書評等をもとに紹介し、私のコメントを付そうと思います。
ただ、実質的な書評は、ガーディアンのもの(B)だけであり、しかも、書評子が本そのものを読まずに書いた書評であることから余り信用がおけません。
また、この本の各章の概要を紹介してから「書評」子による批判をちょっとだけ掲げた「書評」(D)は、概要の紹介の仕方が極めて分かりにくい、ときています。
結局のところ、こういったものを肴にして、私自身が自分自身の日本の宗教観を反芻しつつ、必要に応じてそれを深めていければいいではないか、と腹をくくった次第です。
そんなものに付き合わされるなんて迷惑だ、とおっしゃりたい方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかあしからず。
A:http://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/I/bo13657764.html
(10月1日アクセス(以下同じ)。宣伝文)
B:http://www.theguardian.com/commentisfree/2013/sep/30/how-do-religions-die
(書評。但し、書評子は、この本をまだ読んでおらず、上記宣伝文だけを読んでこの書評を書いたようだ。)
C:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=13&ved=0CDgQFjACOAo&url=http%3A%2F%2Freligiousstudies.wvu.edu%2Fr%2Fdownload%2F150287&ei=O29KUuDgGOrtiAfG7oHwDA&usg=AFQjCNEJepnNewOvlvvjMq79iYKxL4DMGA&sig2=UQ7-gFuRqo0RWOnCYR0d9A&bvm=bv.53371865,d.aGc
(この本を踏まえた別人による大学の授業の内容説明)
D:http://laurandall.wordpress.com/2013/08/13/jason-ananda-josephsons-the-invention-of-religion-in-japan/
(この本の各章の概要の紹介と批判)
ちなみに、ジョセフソンは、米ウィリアムズ単科大学の宗教学の准教授であり、第一の研究対象は(日、漢、仏、西、ポルトガル、独、蘭各語文献を駆使して研究を行っている)日本の江戸・明治期の宗教であり、第二の研究対象は(ポスト構造主義、京都学派(!(太田))、フランクフルト学派等の)欧州哲学であり、第三の研究対象は欧米における宗教研究史です。
彼は、2001年のハーヴァード大修士、2006年のスタンフォード大博士です。
私は、彼が、これまで、プリンストン大、及び、仏、独の大学の客員を務めたというのに、その中に日本が登場しないことに、かなり奇異な印象を受けました。
http://religion.williams.edu/faculty/jason-josephson
主たる研究対象に係る地域に一定期間滞在した経験なくして、まともな社会科学的研究などできるはずがないからです。
2 日本の「宗教」
(1)この本の宣伝文句
「その長い歴史を通じ、日本は、我々<欧米人>が呼ぶところの「宗教(religion)」なる概念を持たなかった。
その意味に近似するものすら、日本の言葉には該当するものがなかったのだ。
しかし、米国の軍艦群が1853年に日本沿岸に出現するや、日本政府に対し、宗教の自由を求めることを含む諸条約<(注1)>に調印するよう強いた結果、この国はこの欧米の観念と格闘(contend with)しなければならなくなった。
(注1)日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce)第8条:「<米国>人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。<米国>人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。宗教論争はおこなってはならない。長崎での踏み絵は廃止する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
この本の中で、<著者>は、どのように日本の役人達が日本で宗教を発明したかを明らかにするとともに、<日本における、>爾後の広範囲に及ぶ知的、法的、そして文化的変化の後を追う。
抑圧と覇権の物語を超えて、ジョセフソンの説明は、宗教<なるもの>を明確化(articulate)する過程が日本の国家に貴重な機会を与えたことを証明する。
キリスト教及び一定の諸形態の仏教の信教(belief)のための空間を作り出すことに加えて、日本の役人達は神道をこの範疇から除外した。
その代わり、彼らは、神道を国家イデオロギーとして大切にする(enshrine)一方で、土着のシャーマン達や女性の霊媒達という人気ある諸慣行を「迷信群」の範疇、すなわち、寛容(tolerance)の領域の外、へと格下げ(relegate)した。
ジョセフソンは、日本における宗教の発明は、政治的必要からの領域設定作業であって、<日本において、>仏教、儒教、そして神道に関して継承されてきたもろもろのもの(materials)を広範囲にわたって再分類(reclassify)しただけでなく、微妙だが顕著に、種々の形で、我々<欧米人>自身の今日における宗教概念の明確な記述(formulation)を見直させた(reshaped)、と主張する。」(A)
(続く)
日本の「宗教」(その1)
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