太田述正コラム#6509(2013.10.13)
<バングラデシュ虐殺事件と米国(その4)>(2014.1.28公開)
(4)虐殺
–発端–
「1970年[12月]、パキスタンの軍事体制は、その後ずっと悔やむことになったのだが、総選挙を行い、東パキスタンのアワミ連盟が西パキスタンの諸政党に対して決定的勝利を収めた。」(D)([]内はG)
「[この選挙の結果、アワミ連盟が東パキスタンの162の議席中160を占め、全体でも過半数を超える議席を占めた]<にもかかわらず、アワミ連盟の長である>ラーマンに、組閣する機会は与えられなかった。
・・・[1969年に権力を掌握した]ヤヒア・カーンは、<選挙の結果>第二党<となった政党の党主であった>・・・アリー・ブットーに駆り立てられて、ラーマンを逮捕し、軍にベンガル人達を粉砕するよう命じた。
パンジャブ人が支配的であった軍は、暴虐的に動き、ベンガル人指導者達、知識人達、そして自分達に反対する者なら誰でも、射殺し、勾留した。」(B)([]内はG)
「1971年3月25日の夜、ヤヒア・カーンは凶暴な弾圧に乗り出した。
パキスタンの敵であるインドに最も友好的であると見なされた、ベンガル人少数派たるヒンドゥー教徒達に焦点をあて、ジェノサイド的流儀で、殺人、強姦、そして阿鼻叫喚、からなる狂騒が何か月も続いた。」(A)
「ベンガル人達は、権力の座に就くとともに東パキスタンで事実上の自治を始める構えを見せたが、<1971年>3月末のその時、パキスタンの体制の指導者たるヤヒア・カーン大将は、とりあえず、7,500万人のベンガル人達への統制を再確保し彼らの希望を粉砕するために、30,000人・・やがて70,000人へと増強された・・の兵士達を解き放った」(D)
「当時、インドはソ連と緊密な同盟関係にあったのに対し、中共と米国は、互いに敵ではあったが、どちらもパキスタンと同盟関係にあった。
<しかも、前述したように、>キッシンジャーは、この<パキスタン>内戦の1971年のまさにまっ最中に、パキスタンのカーン大将を仲介者として、西パキスタン経由で、中共との米国の国交を開くための彼の秘密旅行を計画し、実行したのだった。」(D)
「東パキスタンに駐留していた西パキスタンの兵士達、及び若干の当地の支持者達は、学生達、著述家達、政治家達、とりわけ少数派たるヒンドゥー教徒達、を標的にし始めた。
兵士達は、一般住民達を虐殺し、村々を焼き払い、何万人もの人々をインドへ逃げ込ませた。
やがて、その大部分がヒンドゥー教徒たる約1,000万人が難民となった。
少なくとも300,000人の人々が殺されたが、死者の数は100万人を超えると言う説もある。」(F)
「<レーガンとキッシンジャーから見て、前述したような背景から、>ヤヒア<・カーン>・・自惚れの強く浅薄な凡人・・は、突然不可欠な存在となり、東パキスタンで彼が欲することを何でもやってよいものと考えられた。
ホワイトハウスが目を逸らせている中、基本的にイスラム教徒からなるパキスタン軍は、少なくとも300,000人のその大部分がヒンドゥー教徒であるところのベンガル人を殺害し、1,000万人がインドへ逃亡することを強いた。」(D)
–虐殺の内容–
「統計は不確かだが、恐らくは、弾圧が開始されてからの9か月間で、ベンガル人500,000人が殺され、約1,000万人のベンガル人難民が隣国のインドに逃亡した。
難民と死者のどちらも、その圧倒的多数は、東パキスタンのヒンドゥー教少数派から出た。」(D)
「米CIAと米国務省の双方とも、少なく見積もっても、約200万人の人々が命を失ったと推計している。
・・・パキスタン軍によって倒されたり、惨めな(miserable)難民収容所で続々と死んだりして・・。」(G)
「何十万人ものベンガル人・・バングラデシュ政府によれば300万人・・が殺され、1,000万人の難民がインドに流れ込んだ。
そして、彼らは、インドでみすぼらしい(wretched)難民収容所群において続々と死んで行った。」(I)
→同じ本やその本の書評群だというのに、ベンガル人死者数にいくつもの全く異なった数字が登場するのには面食らってしまいますが、戦闘員の死者を入れるかどうかとか、難民の死者数の把握がとりわけ困難である、といった事情は想像できるものの、いかに、当時、東パキスタン及びインドの隣接地域が混乱を極めていたか、ということでしょう。(太田)
(続く)
バングラデシュ虐殺事件と米国(その4)
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