太田述正コラム#6579(2013.11.17)
<横井小楠コンセンサス(その1)>(2014.3.4公開)
1 始めに
 私が、戦前期の日本の対内外戦略を「横井小楠コンセンサス」と呼んでいるところ、これが太田コラムの近現代日本史に一貫して流れる主要テーマであると考えていることはご承知のとおりです。
 しかし、横井小楠の考えを初めて紹介したのはコラム#1609においてであり、この考えを「横井小楠コンセンサス」と名づけたのはコラム#1613においてでしたが、前者で横井の考えをきちんと紹介したとは言えず、また、後者で、果たして本当に「横井小楠コンセンサス」が幕末から維新にかけて日本に成立していたのか、についても十分説明していたとは言えないことが気にかかっていました。
 このシリーズは、この「欠缺」を補うためのものです。
2 横井小楠の考え
 (1)序
 国是三論は、「万延元年<(1860年4月8日~1861年3月29日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%BB%B6
)>、・・・熊本藩士の子として生まれた・・・小楠は三たび越前藩の招きに応じて福井に赴いた<ところ、>この論策は、当時同藩において守旧派・進歩派の対立から藩論も一定しなかったので、藩のとるべき国是を三編にまとめ提案したもの」(編集・解説 松本三之介『近代思想の萌芽』(筑摩書房1966年)、松本解説44、207)ですが、下掲は、この筑摩本からの抜粋です。
 (2)総論
 「万国を該談するの器量ありてはじめて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量ありてはじめて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理の当然なり。」(259)
→日本の国内政治を論じるにあたっては、世界について語るべきものを持っていなければならない、というわけであり、まったくもって横井の言うとおりです。(太田)
 (3)自由民主主義
 「メリケンにおいてはワシントン以来三大規模を立て、一は天地間の惨毒殺戮に超たるはなきゆえ天意に則って宇内の戦争を息<(や)>めるをもって務めとし、一は智識を世界万国に取りて治教を裨益するをもって務めとし、一は全国の大統領の権柄賢に譲りて子に伝えず、君臣の義を廃してひたすら公共和平をもって務めとし政法治術その他百般の技芸器械等に至るまでおよそ地球上善美と称する者はことごとく取りてわが有となし大いに好生の仁風を揚げ、イギリスにあっては政体一に民情に本づき、官の行なうところは大小となく必ずことごとく民に議り、その便とするところに随ってその好まざるところを強いず。出戎出好もまた然り。これにより魯と戦い清と戦う兵革数年、死傷無数、計費幾万はみなこれを民に取れども、一人の怨嗟あることなし。」(265)
 ちなみに、
 「<吉田松陰とは違って、>正統性の根拠を・・・世襲的な天皇・・・「一人」にではなく、逆に「天下」に求めることによって新しい政治理念を生み出そうと試みたのが横井小楠であった。・・・
 小楠にとっては、<上掲のような>米<英>民主主義が、「ほとんど<儒教に言うところの>三代の治教<(注1)>に符合する」と受取られたのである。だから1863(文久3)年、攘夷の勅命に対して彼は・・・強く反発した。ここでは文字どおり「天下は天下の天下」であった。「大に言路を開き、天下と公共の政をなす」・1862年、彼が幕府に建言した「国是七条」の中には、このような一項が加えられていた。この「公共の政」という小楠の政治理念は、やがて三岡八郎(由利公正)に受けつがれて、五箇条誓文の原案である由利案に結晶する<(注2)>のである。」(松本解説。44~45)
 (注1)堯舜禹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B9
による統治を指していると思われる。
 横井自身が「三代の治教」と言っているとすると、揚げ足を取るようだが、禹は夏王朝を興す(ウィキペディア上掲)ので、「民主主義」にはそぐわないのではないか。
 (注2)由利案:万機公論に決し私に論ずるなかれ
     御誓文:広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87
  なお、由利は、福井藩士でかつ横井の弟子であり、しかも、横井とは、「藩の殖産興業策を実施するため、横井小楠と共に西国各地へ出張し」たという間柄でもあった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%88%A9%E5%85%AC%E6%AD%A3
ので、「国是三論」はもちろんのこと、「国是七条」も読んでいたと思われる。
 (4)富国強兵
 「富国の道はすでに聞くことを得たり。強兵これに次ぐべし。」(266)
→福澤諭吉の富国強兵論(コラム#4475。なお、コラム#5602も参照のこと)も横井のそれの踏襲であったということです。(太田)
(続く)