太田述正コラム#6591(2013.11.23)
<アングロサクソン・欧州文明対置論(その5)>(2014.3.10公開)
–欧州由来説–
「英国人達は、実際、困難な状況下で最も優れている。
国民のムードがどんなに沈鬱であっても、チャーチルの同郷人が彼のバトル・オブ・ブリテンにおける諸演説(「人類の紛争の分野において、かくも多数の者<の運命>がかくも少数の者によって左右されたことはない(”Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few)」)を感情の高まりなしに聞くことができなかったように、ヘンリー5世が聖クリスピン(Crispin)に日に行った演説(「少数の、幸せな少数の我々、兄弟の一団」)<(コラム#4180、4317、4491、5059、5086、5889)>の中の諸感情について興奮しないようなまともなシェークスピアの同郷人はいない。・・・
しかし、このような幸福な少数者達は、他の者達がそうであったように、諸イデオロギーを選ぶのではなく、実に自分達の諸自由を固守することによって、どうやってかかる道徳的勇気を獲得することができたのだろうか。
偉大なるフランスの歴史家のフランソワ・ギゾー(Francois Guizot)<(注10)>は、1828年の彼の<パリ大学(ソルボンヌ)での(ウィキペディア下掲)>一連の講義録であるところの、現在、ラリー・シーデントップ(Larry Siedentop)の序文付でリバティー・ファンド(Liberty Fund)によって<英訳が>出版されている『ヨーロッパ文明史(The History of Civilisation in Europe)』の中で、イギリスの人々に対し、「一般的諸観念(ideas)の欠如と理論的諸質問<を提起すること>に対する不信」と対照的であるところの、「良いセンスと実際的能力の健全性」について、敬意を表した。
ギゾーは、イギリス人が、その欧州大陸における諸国の大部分よりも早い時点で「正規(regular)にして自由な政府」を樹立したことを認める。
(注10)1787~1874年。フランスの政治家・歴史家、首相(1847~48年)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%82%BE%E3%83%BC
彼は、これを、<地理的意味での>欧州に<全球的>優勢(ascendancy)をもたらした一般的原因・・一つの原理が支配することが決してなく、「社会的状況(social state)の種々の諸要素が修正され、結合され、そして互いに闘争しあい、そして恒常的に共同生活を営むよう合意することを強いられてきた・・ことに帰する。
彼は、「欧州文明の一般的諸特徴というこの事実が、何よりも<欧州文明の一環たる>イギリス文明を特徴づけたのだ」と続けた。
(注11)「『ヨーロッパ文明史』第1章冒頭で、ギゾーは「明晰性、社交性、共感の能力」を<欧州文明の代表かつ先頭たる>フランス文明の特質として称揚し、<欧州>のよその国に起源をもついかなる思想や制度もそれが自国の境界を越え<欧州>に伝播するには一旦フランスを通過する必要があったのであり、その特質のためにフラソスは<欧州>文明の先頭を歩むことができた。したがって<欧州>文明史を語るにはその精華であるフランス文明の進展を辿るのがよろしいと述べて、それを実行している・・・
<フランスは、イギリスに起源をもつ、順法的<ないし正規(太田)>で自由な政府という制度についても、フランスを通過させた上で、すなわち「一般」化し「理論」化した上で、欧州の大陸部全体に伝播させる任務を帯びているところ、そもそもどうしてかかかる政府がイギリスで生まれたのだろうか。>
イギリスでは「王、封建大領主、そしてコミューン(自由都市)・・・<ないし>ブルジョワ・・・<といった>いろいろな力がいつも同時に発達し、それぞれの主張や利益のあいだに妥協がはかられる」のにたいし、<欧州の>大陸<部>では「社会にある様々な要素、つまり宗教団体、君主政治、貴族政治、民主政治などは同時に存在しながら発達するのではなく、順次に発達した。」「社会のさまざまな構成要素が同時に発展したことが、イギリスを大陸の諸国に先駆けていかなる社会であれその目的とするところ、すなわち順法的で自由な政府の確立へと導くのに大いに貢献したことは疑いをいれない。」(『ギゾーの文明論』PP105、107~109)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=10319
フランスの、モンテスキューのような初期の思想家達やトックヴィルのような後期の思想家達と同じように、ギゾーは英国に尊敬すべきものをたくさん見出した。
しかし、デーヴィッド・ヒューム(David Hume)は、彼の『イギリス史(History of England)』の中で、これらの野蛮人達は、ノルマン人の征服によって「科学と教養の諸初歩(rudiments)」を受け取ったと執拗に主唱することでもって、アングロサクソンの自由がイギリスの<不文>憲法の源泉であるとする神話を既に潰していた。
ヒュームは、「貴族達(peers)の主要な諸特権や庶民達(commons)の自由は、どちらも、そもそも、<ノルマン公国という>外国のものから伸長したものだ」と推測した。
フランスの英国好き(Anglophile)<であるギゾー>とスコットランドのフランス好き(Francophile)<であるヒューム>のどちらが正しいにせよ、英語をしゃべる人々の<世界への>独特の貢献を否定することは不可能だ。」(E)
→「良いセンスと実際的能力」を旨とするところのイギリス文明と、「一般」化と「理論」化を旨とするところのフランスを代表格とする欧州(大陸)文明は、どう考えても対蹠的にして異質な二つの文明であるというのに、また、イギリス文明は「順法的<ないし正規・・・>で自由な政府という」余りにも重要な「制度」を生み出したというのに、なおも、イギリス文明を欧州文明の一環であると貶め、しかも、フランス文明こそ欧州文明の代表かつ先頭的存在と唱え続けたギゾーは誇大妄想的です。
また、イギリス人の自由はノルマン公国から持ち込まれたものだ、というヒュームの主張は、それ以前からのイギリスにおけるコモンローの存在を否定するに等しいところの、ヒュームらしからぬ、イギリスへのコンプレックス丸出しの暴論です。
(これもアングロサクソン文明の欧州(文明)由来説と言えますが、厳密に言うと、ノルマン公国のフランス性(欧州性)とヴァイキング性(ゲルマン性)のうち、後者を重視すれば、必ずしも欧州由来説とは言えなくなります。
このあたりは、ヒュームの『イギリス史』に直接あたってみないと確たることは言えません。)
ちなみに、ここで引用した書評(E)は、このシリーズの典拠中唯一の書評であり、ダニエル・ジョンソン(Daniel Johnsonの)手になるものですが、彼は、1957年生まれでオックスフォードで近代史を専攻して一番の成績で卒業した英国のジャーナリストである
http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Johnson_%28journalist%29
ところ、ホンネではイギリス文明と欧州(大陸)文明を対蹠的にして異質な二つの文明と考えているに違いないのに、韜晦して、わざわざギゾー(やヒューム)に助け舟を出してやっています。
(この書評から私が引用したくだりが、ハンナンの本の叙述の紹介なのか、ジョンソン自身の見解なのかは定かではありませんが・・。)
このような中で、その生誕環境や両親からして、イギリス人とは言えない英国人たるハンナンが、イギリス人のホンネを(忖度した上で)高らかに語る、という面白い構図になっているわけです。
私は、ギゾー・・その『ヨーロッパ文明史』は、福沢諭吉の『文明論の概略』の二つのタネ本のうちの一つ・・
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=14654
やヒュームらの足元にも及ばぬ存在ですが、かねてより、誇大妄想やコンプレックスから自由でありたいと願ってきましたし、大部分のイギリスの知識人のような韜晦もいかがなものかと思いつつ現在に至っています。
そんな私が、最近は、日本文明の文明度がアングロサクソンを上回る、と指摘するようになったことに、(それが決して加齢に伴う保守化などではなく、学習の結果の見解の深化であることを自覚しつつも、)自身、感慨を覚えている次第です。(太田)
(続く)
アングロサクソン・欧州文明対置論(その5)
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