太田述正コラム#6607(2013.12.1)
<台湾史(その17)>(2014.3.18公開)
「蒋介石が第一期国民大会で総統に選出された当時、・・・憲法に優越した有効期間を2年とする「動員戡乱(かんらん)時期臨時条款」<(注42)>(以下「臨時条款」とする)が制定され、1948年5月10日に施行された。「動員戡乱時期」とは、「反乱団体」である中国政府・中共政権を「戡乱」(平定、鎮圧)するまでの、国家総動員の時期をいう。したがって「臨時条款」は時限立法であり、有効期間を2年としたのは、それまでに「叛乱」を平定できると踏んでいたからにほかならない。・・・
(注42)「臨時処置とはいえ、1947年12月の憲法施行から僅か4箇月余りで、事実上の憲法改正を行ったことになる。このため憲法本文を修正せず、この臨時条款が制定された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%88%A1%E4%B9%B1%E6%99%82%E6%9C%9F%E8%87%A8%E6%99%82%E6%9D%A1%E6%AC%BE
→「平定できると踏んでいた」というより、「戡乱」を口実として、従来通りの無憲法状態を継続し、中国国民党、より端的には蒋介石(蒋一家)の独裁を継続・強化するのが目的であったと考える方が、これに続く伊藤自身の記述からも、自然でしょう。(太田)
<結局、「臨時条款」は、>延長され、1991年5月・・・まで、43年間にわたり施行されている。・・・この「臨時条款」を補強するのが戒厳令であり、また「動員戡乱時期」を冠した約160もの法律や条例であった。いいかえれば国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に、台湾における強権政治を正当化し、統治体制の安定と強化をはかったのである。
「臨時条款」は改正を重ね、総統ならびに第一期の国会議員の終身化を可能にし、総統に「緊急処分権」を与えている。・・・
国民党はながらく疑似「レーニン式の政党」をめざし、一党独裁という「以党治国」の体制を整えようとし<てき>た。それまでの国民党は諸派閥の連合体に過ぎなかったが、台湾移転を前にして党の再編成を行ない、蒋介石の直系だけでその中枢を固め、台湾において蒋介石のちに蒋経国の一元的な支配体制を構築し、「以党治国」を実現したのである。
1949年5月20日の戒厳令の施行を契機に、国民党政権は集会と結社の自由を制限するとともに、新たな政党の結成も禁止した。これがいわゆる「党禁」である。・・・」(168~170)
「中国の政治文化には「投票箱から政権が生まれる」という発想はない。毛沢東がいったように「鉄砲のもとで政権が生まれる」のが、中国政治の神髄である。・・・
→「投票箱から政権が生まれる」という発想がなかったことと、「鉄砲のもとで政権が生まれる」という発想とは直接関係はありません。
日本にも江戸時代までは、前者の発想は「基本的」になかったけれど、「鉄砲<だけ>のもとで政権が生まれる」という発想もまたなかったからです。「錦の御旗」の必要性一つとってもそうです。(太田)
朝鮮戦争が勃発した後、アメリカは台湾に対する援助を始めた<(再開した(太田))(注43)>。・・・<その半分以上が>軍事援助であった。アメリカの軍事顧問団とともに、日本の元軍人であると見た富田直亮(中国名、白鴻亮)<(注44)>を団長とする、いわゆる「白将軍」の「白団」<(注45)>と称される秘密の軍事顧問団も加わり、国民党軍の装備と訓練を支援した。これらが国民党軍の近代化に資し、台湾での徴兵もあって、戦闘能力は飛躍的に強化された。」(177~178)
(注43)「1954年9月、中国人民解放軍は金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い、翌1955年1月には、一江山島を攻撃、占領した。2月8日から2月11日にかけて<米>海軍護衛のもと大陳島撤退作戦が実施され、中華民国国軍は浙江省大陳島の拠点を放棄した。1958年8月には中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始した・・・。台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。<米国>は台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、台湾政府に軍事援助を開始。台湾は[白団員達の活躍によって]金門地区の防衛に成功する。《世界初と言われるジェット機同士のサイドワインダー(ミサイル)による空中戦も白団の旧陸軍航空隊の将校が指揮したらしい。》10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、<米国>との全面戦争を避けた。【その後、白団は大陸反攻計画まで策定させられた、】」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%9B%A3
http://blogs.yahoo.co.jp/heitotakaohonors/10373851.html ([]内)
http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/42486360.html (《》内)
http://g2.kodansha.co.jp/4291/4668/7646/7647.html (【】内)
(注44)1899~1979年。陸士・陸大、東京外大1年在籍、米留。陸軍少将(日本)。陸軍上将(台湾)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E7%9B%B4%E4%BA%AE
(注45)ぱいだん。「1949年から1969年までの間、団長富田直亮・・・以下83名にのぼる団員が活動した。・・・当時の国<民政>府軍の中には<白団から教育を受けた者>でなければ、師団長以上に昇進できない”という不文律まであった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%9B%A3 前掲
→朝鮮戦争が勃発した1950年に、すぐ米国が対蒋介石政権援助を再開したわけではなく、また、援助の一環として米国の軍事顧問団が派遣されたのも、白団「結成」よりずっと後なので、伊藤の記述は不正確です。
それにしても、自分の独裁権力の基盤たる軍に係る白団への依存ぶりに象徴される、蒋介石・・日本の東京振武学校修了、第13師団高田連隊隊付実習・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
の日本「回帰」は遅すぎました。(太田)
(続く)
台湾史(その17)
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