太田述正コラム#6609(2013.12.2)
<台湾史(その18)>(2014.3.19公開)
「二・二八事件」以後、台湾に監視と摘発の・・・網・・・を張りめぐらせた国民党政権は、改革の要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイを隠匿した」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦なく弾圧した。それにとどまらず、批判や抵抗をする異議分子の抹殺のために、罪の捏造も多々行なわれた。・・・
1984年10月の「江南殺害事件」<(注46)>。江南(本名は劉宜良、外省人)は米国籍をもつ作家であり、国民党政権の内幕を暴露するなど、アメリカで活躍していた。・・・蒋経国の次男である蒋考武<(注47)>の命令で、国防部軍事情報局が派遣した台湾のヤクザ組織により、サンフランシスコ郊外の自宅で殺害された。国民党政権はアメリカでの裁判において、事件との関係を否定したが、1990年9月に江南の未亡人に慰謝料150万米ドルを支払、和解している。この事件後の1985年8月17日に、「親台湾」とされるレーガン大統領は、「1986~87年度外務授権法案」に関連して、台湾の民主化を推進するよう国民党政権に圧力をかけた。これがその後の民主化推進の契機となり、1986年9月の野党・民主進歩党の結党容認や、1987年7月の戒厳令の解除につながった。」(181、186)
(注46)この事件の詳細が載っている。↓
http://www.gakusen.ac.jp/faculty/mikio/3-2.htm
(注47)1945~91年。「成績不良で落第を経験しながらも何とか高校を卒業、予備役に入り、軍事訓練を受けた。1966年、21歳でドイツのミュンヘン政治学院に留学した。卒業後、米国に一時滞在、25歳で帰国した・・・。・・・90年1月、蒋孝武は亜東関係協会駐日代表部の代表<(事実上の駐日大使)>に任命された<が、>・・・91年5月<に辞任、>・・・7月1日<に>・・・すい臓ガンのために死去した。」
http://www.gakusen.ac.jp/faculty/mikio/3-2.htm 上掲
→台湾の民主化が米国の圧力(のみ)によって実現したかのように読めますが、伊藤が、(下出の台湾の経済発展に関してのように、)日本の統治の遺産に言及せず、また、蒋経国自身の功績に言及していないのは極めて問題です。(太田)
「国民党政権に接収された当時の台湾は、行政長官公署の人為的な失政に加え、中国における国共内戦の影響により経済的な混乱を深めており、ほどなくして危機的な状況を迎えた。なかでもインフレの昂進は凄まじく、1945年から50年までの約5年間に、物価の上昇は1万倍にも達している。・・・その上に、国民党政権とともに官吏軍人、その一部の家族ら約150万人が台湾に移り住み、消費人口は一気に膨れ上がり、ますます台湾経済を窮地に陥れた。・・・
国民党政権は台湾移転を前にした1948年4月に、台湾の土地改革・・・を断行し・・・従来、地主は小作人から収穫物のおよそ50%の小作料を取っていたが、これを37.5%以下に引き下げさせた・・・。
さらに国民党政権の台湾移転後の1951年6月に、・・・公有地および公営企業の所有する土地で、現に耕作している農民にその土地を払い下げた。・・・
つづいて1953年1月には、・・・地主から土地を取り上げて小作人に払い下げる<ことを断行した。>・・・地主への土地代金の支払いは、70%<が>米などの実物債券で10年間の分割払い、30%<が>公営企業の株式<だった。>・・・
<これら>がほとんど地主の抵抗なくして実現できたのは・・・ほぼ強権政治体制が整っていたからで、・・・しかも<「公有地および公営企業の所有する土地・・・の払下げ」>のための土地も、地主に支払う公営企業の株式も、「敵産」として日本から引き継いだものであった。
この「元手いらず」の土地改革は、国民党政権の安定および経済再建に大きく寄与するものとなった。・・・
<その一方で、国民党政権は、>農民への収奪<を行い、>・・・土地改革で与えた利益を吐きださせ<た。>・・・」(187~190、192)
→農地改革が実施できたのは、日本の統治の遺産のおかげだった、ということです。(太田)
「台湾は・・・「奇跡」といわれるほどの経済成長を成し遂げたが、それにはいくつかの要因があった。
まず指摘したいのは、肥沃な土地と勤勉な住民である。・・・
日本から受け継いだ「遺産」もある。・・・
太平洋戦争中の米軍による爆撃で、若干の破壊はあったが、50年間に築かれたインフラの整備、産業の振興と教育の普及など、同じように植民地支配を受けてのちに独立した、開発途上国の比肩できるところではない。
→この伊藤の表現はなんだかおかしい、と思います。
台湾もまた、日本が植民地化した時点では「開発途上国」であったからです。
「開発途上国」の定義にもよりますが、台湾が日本の手を離れた時点では、もはや「開発途上国」ではなくなっていた、というのが伊藤の認識であれば、それは日本の統治のおかげでしょう。
いずれにせよ、日本以外の列強、すなわち、欧米列強の旧植民地の中で、非「開発途上国」化した事例は基本的になかった、ということは間違いありません。(太田)
米国の援助と日本の借款供与も大きく資している。・・・米国の援助は台湾の国民総生産(GNP)の、およそ5ないし10%を占めていた。・・・米国の援助が1965年6月に終わるため、国民党政権は4月に日本政府と・・・円借款の協定を結んだ。・・・この円借款は金額においては米国の援助と比較にならないが、援助の停止を補うと同時に、台湾経済と日本経済の緊密化をもたらすものとなった。
国民党政権の危機意識も見逃せない。・・・台湾海峡をはさむ対岸の中国の脅威に備えるには、政治の安定と経済の発展を急ぐしかなかった。・・・このような危機意識が、強権政治を招来させた弊害は否めないが、経済の発展を促したことも事実である。もっとも成功した例に1965年に創設した、保税加工区である「加工出口区」(加工輸出区)がある。加工輸出区では税制の優遇、行政手続きの簡素化、為替管理の緩和と国外送金の保証などの優遇措置がとられ、輸出向けの製品を生産するもので<あり、>・・・その後、中国を含め多くの開発途上国の手本となっている。
文化大革命も少なからず影響をおよぼしている。・・・
中共政権は、1966年からいわゆる「10年の内乱」である文化大革命のあらしに翻弄され、台湾をかえりみる余裕をもたなかった。・・・
外国資本の導入も要因の一つである。・・・<すなわち、>外国人および在外中国人である華僑の投資・・・<であ>る。・・・外国人や華僑の投資に、税制上および工業団地の取得についての優遇措置を保証し<たのだ>。・・・
1952年から90年までの、外国人の投資・・・では、日本が32.6%で第一位、米国の21.9%、ヨーロッパ諸国の13%、香港の7.3%とつづく。一般的に日本の投資は、台湾企業との合弁が多く、製品は輸出のほか台湾でも販売された。」(193~198)
→日本の手を離れてからも、日本政府の借款、日本企業の投資が、台湾の経済発展に決定的役割を果たした、と言えそうです。(太田)
(続く)
台湾史(その18)
- 公開日: