太田述正コラム#6615(2013.12.5)
<台湾史(その21)>(2014.3.22公開)
「台湾人である上に党歴も浅く、総統と党主席に就任したものの、<当初は>「党」「政」「軍」「特」を掌握していな<かったが、>李登輝は決して党内の外省人長老が期待する「ロボット」には甘んじなかった。そして台湾人の絶大な支持と期待を支えに、障害を克服しながら一歩一歩その政治信念を実現して行くのである。・・・
李登輝は・・・1990年2月11日の党臨時中央委員会全体会議で・・・<再選され、>1990年5月に第8期総統に就任し<た。>・・・
1991年4月にいたり、「万年議員」を中心とする第1期国民大会の臨時会議が招集され、憲法の一部を改正して「戡乱機構」の国家安全会議や国家安全局などを合法化した上で、「臨時条款」の廃止を決議した。これを受けて李登輝総統は、5月1日を期して「動員戡乱時期」を終了し、「臨時条款」を廃止することを声明した。これにより台湾の非常時体制は解除され、また、中国政府・中共政権は「反乱団体」ではなくなり、これ以後は中国政府を「大陸当局」または「中共政権」と称するようになった。・・・
<1991年>12月末には、国民党政権の正当性の根拠とされ、40余年来無改選の第一期の国民代表、立法委員、監察委員のいわゆる「万年議員」の生き残り、合計565名の退職が実現した。
1992年5月にいたり、言論段階でも処罰する刑法第100条が改正され、係争中の「反乱罪」事件も免訴となった。・・・
1992年12月には、台湾史上はじめての総選挙といえる、第二期立法委員161議席の選挙が行なわれた。激戦のすえに、民進党は52議席を獲得して「勝利」を宣言し、・・・国民党は103議席にとどまり「敗北」を認めた。・・・
1993年2月に第2期立法委員が就任して以来、国民党による一党独裁はすでになくなっている。・・・また、連戦<(注51)>内閣は立法委員の質問に答えて、党が軍隊、行政機関、公営企業など、すべての公的な機関から撤退することを約束した。」(119~222、225~229)
(注51)1936年~。「台湾籍の父・・・と、中国籍(瀋陽出身)の母・・・台南<で>・・・生まれた・・・。・・・父・震東は、内政部長、総統府国策顧問などを務めた国民党の大物。震東が中国西安で国民政府の工作活動に従事しているときに連戦が出生した。祖父・連横は、日本統治時代、「台湾通史」を著した学者で「抗日大詩人」と呼ばれた。国民政府が日本に「連戦連勝」するよう祈念して孫の名前を連「戦」と名付けたが、孫・連戦が誕生する2か月前に上海でこの世を去ったという。台湾大学政治学部卒業後、1959年に・・・シカゴ大学へ留学し、論文「台湾の土地改革」で修士号、論文「中共はなぜ胡適を批判するのか」で政治学博士号を取得した。ウィスコンシン大学マディソン校、コネチカット大学で助教授を務めた後、1968年に台湾に帰国し、台湾大学政治学部主任、政治研究所所長を長年務めた。・・・1975年、駐エルサルバドル大使に任命され、翌年から中国国民党での政治活動が本格化した。蒋経国総統のもと交通部長、行政院副院長(副首相)を務め、頭角を現した。李登輝政権では、外交部長、台湾省政府主席を歴任し、1993年には国民党副主席兼行政院長(首相)に就任、党内ナンバー2となる。1996年総統選で、李登輝総統とペアで当選し、第9代中華民国副総統に就任した(行政院長を1997年8月まで兼務)。2000年総統選に李登輝の後継として出馬・・・したが、国民党の実力者で大衆的人気のあった宋楚瑜が離党して出馬し、分裂選挙となった。結果は民進党の陳水扁に敗れ、宋楚瑜候補にも大きく差をつけられ3位に甘んじ、中華民国(台湾)史上初の政権交代を許した。しかし、李登輝が惨敗の責任を問われて党主席辞任に追い込まれると、2000年7月、国民党主席に選出され、党内ナンバー1となる。・・・現在は中国国民党名誉主席。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E6%88%A6
→このような進展は、李登輝を登用した蒋経国の想定内であった、と私は考えています。(太田)
「一言でいえば、1624年のオランダの支配に始まる台湾の歴史は、いわば「外来政権」による抑圧と住民の抵抗の記録である。
日本統治下の台湾に生まれ、国民党政権の統治下で16年間にわたり教育を受けた私は、日本に留学するまでついに台湾の歴史を学ぶことはなかった。国民党政権が「台湾人が台湾の歴史を知ることを歓ばなかった」からである。・・・
台湾において永らく台湾史の研究と教育が阻害されてきたのは、政権の正当性の矛盾を衝かれることを警戒したからにほかならない。このような状況のもとで、戦後の台湾史の研究はほとんどが外国、なかでも日本に留学した人々の手によって始められたといっても過言ではない。日本には台湾史研究のための史料や資料がもっとも多く保存されていたからである。・・・
民主化が進捗するにつれて、今後は国民党政権下でも台湾史の自由な研究が期待できるであろう。私としてはこの日本で、政治的になんらの制約も受けずに、自由な立場で小著を刊行できる幸福を味わっている。・・・
半世紀におよぶ日本の統治<で、>・・・台湾は、・・・「植民地下の近代化」を成し遂げたことは事実であり、わけても教育制度の整備と普及は、大書特筆すべきものである。・・・
もとより私には、日本の台湾における植民地支配を美化する意図は毛頭ない。台湾を支配した大日本帝国は「慈善団体」ではなく、その植民地経営が「慈善事業」でないことは当然であり、「植民地下の近代化」も日本の「帝国主義的な野心」に発したものである。・・・<しかし、>私は、日本の台湾統治における「植民地下の近代化」を強調するのである。」(235~237)
→頁数に限りのある一般向けの「小著」であるとはいえ、「帝国主義」についての伊藤の定義を若干なりとも示すことなく、「日本の「帝国主義的な野心」」云々、と書かれても、我々としては困ってしまいます。
例えば、定義いかんによっては、大英帝国は「帝国主義的な野心」抜きに商業的ないし経済的利益だけを追求しつつ、結果として形成された、とも言えるのですからね。
また、日本についても、私が、台湾や朝鮮半島の領有は、「帝国主義的な野心」に基づいてというよりは、安全保障上の必要性に迫られて行われた、と考えていることはご承知のことと思います。
更に言えば、日本の「植民地経営<は>「慈善事業」で」こそなかったけれど、人間主義的に推進された、と私が考えていることもご承知のことと思います。
こういったことから、日本の植民地統治は「教育制度の整備と普及」に力を入れたのであり、この点で完全に手抜きをした英国による(拡大英国を除く)植民地統治が、日本によるそれとは違って、全ての植民地において、基本的に「近代化」をもたらさなかったのは、理の当然なのです。
結局のところ、この本の最大の問題点、というか、伊藤の方法論の最大の問題点は、既に、累次、本シリーズ中で指摘してきたように、比較史的視点の欠如であると言えるでしょう。
とはいえ、隣「国」台湾の歴史について、この本に描かれた程度の知識を持つことは、日本人にとって必要なことであり、この本を我々のために残し、既に鬼籍に入られているところの、旧日本帝国臣民、かつ旧台湾人たる日本人の伊藤潔に、感謝の念を表明して、本シリーズを終えたいと思います。(太田)
(完)
台湾史(その21)
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