太田述正コラム#6691(2014.1.12)
<またもや人間主義について(その7)>(2014.4.29公開)
 道徳的賭け金をつり上げるのは、これら諸偏見が、より明白にその性格上道徳的であるところの心理の様相と相互作用を起こす形態だ。
 換言すれば、良い諸行状は報償され悪い諸行状は処罰されるべきであるとの直観であるところの、正義の感覚だ。
 正義の感覚というものは結構なことのように響く。
 良いふるまいを報償すればそれは増えるし、処罰の脅威は悪いふるまいを思いとどまらせる<と思われるからだ>。
 しかし、これには、偏頗でない判断・・悪い諸事柄をやった者には処罰が与えられ、善い諸事柄をやった者には報償が与えられるという・・が前提となる。
 ところが、つい今しがた記したように、我々の諸判断は偏頗であるべく設計されているのだ。・・・
 ルワンダのフツとツチ<(注10)(コラム#149、326、2689、5338)>は、彼らの共通の人間性(humanity)のおかげで、悪い人々は苦しまなければならないという直観を共有していた。
 (注10)「フツ (Hutu) はアフリカ中央部のブルンジとルワンダに居住する「3つの民族」集団の中で最も大きな集団であ<る。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%84
 「ツチ<は、>・・・16世紀頃の牧畜民に起源を有するとみられる集団で、少数派であったがルワンダ、ブルンジで王室を支えていたためにドイツ、ベルギー(第1次世界大戦後)の植民地支配の際に農耕民であったフツや狩猟採集民のトゥワ[(Twa, ピグミー系)]に対する間接統治者として支配階級となった。1960年代頃から独立運動が盛んになると多数派のフツと軋轢を生じるようになり、1994年にはルワンダ紛争で少なくとも50万人から100万人にも及ぶツチの人々が虐殺されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%84 上掲([]内)
 「フツとツチは元々同じ民族で、植民地化を進めたドイツ人とベルギー人が彼らの支配を正当化するため、ツチを地域的な中間支配者として人工的に作り出したとも考えられる。<実際、>・・・フツとツチは同じ宗教・・・カトリック、プロテスタント、スン<ニ>派・・・、同じ言語・・・ルンディ語、ルワンダ語・・・を共有している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%84 上掲
 彼らの共通の人間性により、彼らは、単に、どちらの集団が悪いかについて見解を異にしただけなのだ。
→ライトは、普遍性のある事例としてフツ・ツチ紛争を持ち出しているわけですが、私は、以下のように考えていることから、このくだりに大変違和感を覚えます。
 フツによるルワンダ/ブルンジ支配層たるツチの虐殺とポルポト派によるカンボディア知識層の虐殺は、一対のものであって、方やドイツ/ベルギー、方やフランスの植民地統治を受けた後、独立後まもなく生起したところの、どちらもたまたま100万人規模の虐殺が起きた、特殊な事件なのではないでしょうか。
 つまり、それぞれの被支配層から見れば、ツチも、また、カンボディア知識層も、栄光ないし収奪のために統治したところの、被支配層に冷たい旧宗主国の買弁勢力以外の何物でもないのであって、旧宗主国がいなくなって後ろ盾を失った買弁勢力から被支配層の代表を標榜する勢力が、復讐と権力奪取を目論んで大量虐殺を起こした、ということのように、私は思うのです。
 なお、こんなことは、仏領インドシナの「中心」であるベトナムでは起こりませんでしたし、ベルギー植民地の「中心」であるコンゴでも起こりませんでした。
 ベトナムでもコンゴでも独立後、内戦は起こりましたけどね。
 フランスとベルギーが、それぞれ、カンボディアとルワンダ/ブルンジで手抜き統治をしたことが透けて見えてきます。
 (事実関係の大部分は、下掲による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%88 )(太田)
 グリーン・・・及びその他大勢の学者達は、正義の感覚は自然淘汰の遺産であると信じており、その論理は単純明快だ。
 初心者のために記すが、協力の諸便益を引き出すことには、(その人物がいつかあなたを助けてくれるかもしれないことから、)誰かに助力の申し出を行うといったことが付き物だが、それは、自分に向けられた好意にはお返しをするけれど助力してくれない人々に対しては助力を続けない、という形で選択的にその後の対処を行うことも意味する。
 それは、例えば、友情を装いつつも、あなたの気前のよさによる便益を享受した後、あなたを見捨てたところの、あなたの信頼を裏切った人々を処罰することすら意味するかもしれない。
 だから、協力を支配している諸衝動は、友情を固める感謝から暴力を呼び起こす正当なる憤激といった類のものにまでまたがっているのだ。
(続く)