太田述正コラム#6815(2014.3.15)
<経済学の罪(その3)>(2014.6.30公開)
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<脚注:利他主義/愛の非希少性>
「・・・<今回の発見における>悪いニュースは、<他人を>助けたいとの気持ちは、社会心理学者達が「傍観者効果(the bystander effect)」と呼ぶものによって阻害される(suffer)ことだ。
被験者たちが低レベルの助力を目にした場合は、自分達自身が助ける可能性を増大させた。
しかし、高レベルの助力を目にしてしまった場合は、彼らは自分達自身もまた助けようとはしなかった。
彼らは、自分達自身が犠牲を払う必要などもはやないと感じたように見えた。
今回の発見は、これまでの「社会的懈怠(social loafing)」、「ただ乗り」、そして、「責任の拡散(diffusion of responsibility)」についての諸研究と整合性はある。
<今回の発見における>明るいニュースは、助力を受けるとそれが間違いなく見知らぬ人に対する寛大さを増進させるだけでなく、<自分に対する他人の>寛大さによって裨益した被験者達は、彼ら自身が、自分達の集団内での高諸レベルの助力を目にした場合にあっても傍観者効果をより受けにくくなること<が分かった点>だ。
親切な行動が行われると、多くの人々がその助力行動を目にする潜在的可能性があることから、それは、階段状に連続する滝(cascade)のような寛大さ<の連鎖>を起動させるという重要な役割を果たす可能性が高い、という結論は<これまで既に>下されていた。
しかし、<今回>我々が発見したのは、<自分が現実に>助力を受けることこそ、<助力行動>がその集団内に普及して行くに際してこの階段状に連続する滝を維持させた<一番大きな要因である>、という事実だ。
<つまり、>・・・今度あなたが見知らぬ人を助けるために足を止めた場合、あなたはこの特定の個人を助けるだけでなく、下流にいる他の大勢の人々を潜在的に助けている<と思え>、ということだ。
<それどころか、いつか>周り回って、あなたが助力を受けることになるかもしれないのだ。」
http://www.nytimes.com/2014/03/16/opinion/sunday/the-science-of-paying-it-forward.html?ref=opinion
(3月15日アクセス)
→我々は、経済学者が前提とするように利己的に行動するだけでなく、人間主義者的に行動する場合があるということと、人間主義的に行動すれば全員が裨益するということが、人間科学によってもはや証明されている、と言ってよかろう。(太田)
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「愛、仕事、或いは世話(care)において、人的諸財(human goods)は関係的(じんかんてき=relational)なものである、と述べることが、議論の余地のないことであればいいのにと思う。
世話と親切、愛情(affection)、愛、<そして、>寛大さと支援、は、相互的な諸営み(mutual endeavours)なのであって、他者達との間で関係とコミュニティを通じてのみ出現する(come about)ものなのだ。
これらは、与えること、受け取ること、そしてお返しをすることを伴うことから、要するに、一人では構築することも、利己で駆動させることもできないのだ。・・・
ところが、経済学は、我々に、連帯意識(solidarity)、同情心(compassion)、共感(empathy)を持つことを忘れさせてしまう危険性を孕んでいる。
<いわば、>経済学は人生<にとって>の<不可欠な>諸財(goods of life)と戦争状態にあるのだ。
我々の世界が直面している諸課題(challenges)のことを考えれば、啓蒙された自身(enlightened self)、すなわち個々人の利益、の代わりに集団的行動が真に必要とされている中で、経済学は、変革のための最大の障害なのかもしれないのだ。・・・
私の<このような>結論は、諸取引(transactions)から社会的義務の連鎖を剥奪してしまい、直接的な金銭的諸考慮の注視だけしか残さないという、経済学の力(ability)が生み出したものだ。
費用と便益という狭い(tightly)経済的領域の枠内で計算が行われる結果は単純だ。
<例えば、公害や混雑といった外部性を捨象し、>バス<を使うこと>は<、車を買って使うことに比べて、自分にとって>高過ぎる<、といった誤った結論が下されてしまう>。・・・
更に、経済的交換(exchange)は常に諸退出(quits)で終わることから、市場諸原理の延長であるところの第二次的帰結が生じる。
つまり、一旦、自分が公害のための賦課金を払ってさえしまえば、自分は自由になり、自分が汚染を続けている間は、好きなだけ汚染することができる、といった・・。
支払うこと(payment)は、懺悔の戯画のように、人から、それ以上の全ての責任を免除する、というわけだ。」(G)
→私の言葉に翻訳すれば、ロスコーは、経済学は反人間主義的である、と言っているのです。(太田)
(続く)
経済学の罪(その3)
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