太田述正コラム#6929(2014.5.11)
<戦争の意義?(その14)>(2014.8.26公開)
人類の歴史の大部分において、人々は諸会戦(pitched battle)を通じて、に比べてより多く、諸襲撃や諸待ち伏せを通じて、闘ってきた・・・。
しかし、古代の運の良い諸緯度の中では、戦争は、より大きくて安全で豊かで、より複雑な(sophisticated)諸国家への進化を駆動し、それが今度は、一連の軍事における革命(revolution in military affairs)<(注18)(コラム#1616、5636、5953)>群を駆動した・・・。
(注18)RMA.「広義のRMAとは、戦術・組織等といった、軍事に関する諸要素の「革命的な変化」を指す。・・・RMAが発生する要因はいくつか存在するが、その一例として技術革新が挙げられる。革新的な技術が登場することにより、従来では実現不可能だった新しい兵器等のシステム開発を可能にし、さらにそれらを・・・活かす戦術、それを支える組織、補給、人材など軍事基盤、更には社会基盤・・・変革が生じ・・・<それら>が伴う事で初めてRMAがおきる・・・。・・・
RMAとは、狭義には<米>国で発生して以来各国で進行しつつあるRMAである情報RMAを指す。この発案提唱は旧ソビエト連邦のニコライ・オガルコフだとされる。情報通信技術をはじめとする各種の新技術を適用したシステムを軍事組織に導入する事で、戦力の円滑・効率的な運用を行うことで従来より少数の戦力で従来以上の戦果を追求するという考え方から発生したものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9D%A9%E5%91%BD
・・・20世紀末の軍事革命のように、上記軍事における革命群は、連動するところの、技術的、組織的、戦術的、そして兵站的諸前進によって構成されていた。
そしてまた、20世紀末の軍事における革命のように、我々は、上記軍事における革命群を、軍事的な変革(transfromation)群であると同程度に、社会的、経済的、文化的、そして政治的諸変革である、と考えなければならないのだ。
運の良い諸緯度の全域にわたって、これらのうちの最初のものは築城(fortification)だった。
それは、諸コミュニティを、襲撃者達を中に入れないようにするのに十分な、壁群を構築できるように組織化することを意味した。
南西アジアで、(その証拠には議論があるが)BC9,300年までにエリコ(Jericho)<(注19)(コラム#720、3457、5390)>においてか、間違いなく遅くともBC4300年までにメルスィン(Mersin)<(注20)>・・この間の可能性のあるいくつかの諸ケースがあるわけだが・・まぎれもなく、<世界で>最も早く築城が行われた。
(注19)「死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。世界で最も標高の低い町でもある。エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B3
なお、この日本語ウィキの考古学的記述は時代遅れで全く役に立たない。英語ウィキを参照のこと。
エリコで、野生及び飼育化された穀物を食糧とする土器なしの定着生活が始まり、それほど時間を置かず、洪水防止のための築城がなされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jericho
(注20)アナトリア半島の地中海に面した港町。
[ヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト(Lagids)が次々に領有した。]
「ローマ帝国の時代、この地域はタルスス[(Tarsu。メルスィンの近傍)]を都とするキリキア[(Cilicia)]の一部であった。メルスィンはキリキアの主要港であった。町はラテン語でZephyriumと呼ばれていたが、ハドリアヌス帝を称えて「ハドリアノポリス (Hadrianopolis)」に改称された。 395年ローマ帝国が<東西に>分裂すると、この地域にはビザンティウムの支配が及<んだ>・・・。町は早くからキリスト教化が進んでいて、司教が存在した。その後、アラブ人、エジプトのトゥールーン朝、セルジューク・トルコ、モンゴル、十字軍、アルメニア人、マムルーク朝、ベイリクと町の支配者が変わり、1473年最終的にオスマン帝国に征服され<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Lagids#Ptolemaic_rulers ([]内。ただし、築城の話は、英語版には載っているが日本語版には載っていない。)
以下、脱線的注釈だが、「ベイリク(Beylik・・・)は、かつてアナトリア半島に割拠した国々。君侯国とも呼ばれ、ベイ(君侯、ベグ)と呼ばれる君主が治めた。11世紀末からルーム・セルジューク朝の凋落期の13世紀後半までに発生した。ベイリクとは「ベイ(Bey)の領地」を意味する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%AF
「ルーム・セルジューク朝(・・・1077年~1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。・・・「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
そして、BC3,500年までには、築城は極めて一般的なことになりつつあった。
(続く)
戦争の意義?(その14)
- 公開日: