太田述正コラム#7430(2015.1.17)
<カール5世の帝国(その11)>(2015.5.4公開)
「法王パウルス(Paul)3世<(注25)>は、大勅書(bull)を1537年に発出し、「神の言葉を説教するとともに、自分達の善きかつ聖なる生き様の例示によって、インディアン達を改宗させなければならない、と宣言した。」
(注25)1468~1549年。法王:1534~49年。「<イタリアのトスカーナ生まれで、法王就任後の1537年、>イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した・・・。・・・<その>1537年の勅書で「新大陸(アメリカ大陸)の住民も真の人間である」と宣言した。・・・1538・・・年には<イギリス>国教会をたてた・・・ヘンリー8世を破門した。・・・ミケランジェロの才能を高く評価し、システィーナ礼拝堂の最後の審判(1541年)を描かせた。また、カンピドリオ広場の整備、サン・ピエトロ大聖堂の建設にも従わせた。逝去の年にあたる1549年・・・、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが宣教師として初めて日本に到来、以降1551年まで・・・積極的にキリスト教の布教を行っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
トーマスは、(時には退屈だが、)厳しく(exactingly)、これらの神学的諸事柄に関する種々の意見を考察する。
インディアン達をどのように扱うべきかについての議論における指導的人物は、ドミニコ会の(Dominican)<(注26)>托鉢修道士で多作のパンフレット作成者にして、土着の人々の情熱的擁護者であったところの、バルトロメ・デ・ラス・カサスだった。
(注26)本シリーズの中で、様々な修道会が登場したことから、ここで、各修道会の簡単な紹介をしておこう。
◎ベネディクト会:「529年にヌルシアのベネディクトゥスがローマ・ナポリ間のモンテ・カッシーノに創建した・・・カトリック教会最古の修道会。・・・宗教改革時代に・・・打撃を受け、イギリス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの修道院は解散させられ、ドイツでは全体の3分の1を喪失した。・・・北海道・・・のトラピスト修道院<は>ベネディクト会<系。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E4%BC%9A
◎フランシスコ会:「13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられ・・・1210年に教皇インノケンティウス3世によって・・・認可された・・・修道会の総称・・・。・・・<同会>から生まれた中世の神学者・スコラ哲学者に、ボナヴェントゥラ(1221年?-1274年)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム(1285年-1347年)らがいる。・・・
フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ<は、>・・・1613年・・・支倉常長<ら>・・・慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E4%BC%9A
◎ドミニコ会:「1206年に聖ドミニコ・・・により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可された・・・修道会。・・・同時期に成立したフランシスコ会同様、清貧を特に重んじたためあわせて「托鉢修道会」と呼ばれることがある。また神学の研究に励み、学者を多く輩出した・・・<同>会における神学研究の伝統はアルベルトゥス・マグヌスとその弟子トマス・アクィナスを生み出すことで頂点に達した。他にも・・・バルトロメ・デ・ラス・カサスなど多くの有名会員を輩出している。・・・
1600年、教皇クレメンス8世はそれまでイエズス会のみに認可されていた日本での宣教活動を正式にすべての修道会に認めた。・・・1612年に江戸幕府によってキリスト教禁制が公布されると・・・ドミニコ会員たち<も>日本から姿を消したが、彼らが日本で組織したロザリオの信心会(組)の信仰は隠れキリシタンの間に受け継がれることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B3%E4%BC%9A
◎イエズス会:「<1534年、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だったフランシスコ・ザビエルらによって立てられ、>教皇パウルス3世は1540年・・・認可を与えた。・・・イエズス会員の精力的な<反宗教改革>活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。・・・
ザビエルは・・・1549年に来日。二年滞在して・・・宣教活動に従事した。・・・日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスや・・・オルガンティノ・・・といった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。・・・天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。・・・<現在の日本では、上智大学、栄光学園等を運営。>・・・
<現在の>ラテン・アメリカでは解放の神学の熱心な推進者として多くのイエズス会員が知られている。・・・
<なお、現在の法王>は史上初のイエズス会出身の<法王だが、法名はアッシジのフランチェスコからとっている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
カール5世に提出された『インディアス<(西インド)>の破壊についての簡潔な報告(A Very Brief Account of the Destruction of the Indies)』(1542年)の中で、ラス・カサスは、1,500万人から2,000万人のインディアンが殺されたと主張した。
(トーマスは「著しい誇張だ」と言っている。)
彼は、スペインの政策に対しても叱りつけた。
「諸征服と呼ばれたところの全ての諸戦争は、極めて不正義(unjust)なものであって、賢明な諸君主制ではなく、諸専制の特徴を持っている。
西インドの全ての統治権(lordship)を我々は簒奪した。
我々の諸国王が彼らの西インドにおける王領(principality)<の統治>を真正かつ間違いなく、ということは、不正義なしで、達成するためには、対象となる諸王や人々の同意が必要であることは当然だ」、と。
カールは、一連の人道的諸改革を発出した。
すなわち、インディアンの奴隷化を禁止し、彼らに申し訳程度の(nominal)諸権利を与えた・・ところ、<それでさえも、>トーマスが記すところによれば、「不穏の気配(desasosiego=disquiet)」をノバ・イスパニアやその他の諸植民地で引き起こした。
<そして、>入植者達からの抵抗運動が起こった。
トーマスのこの本は、カールが、欧州における宗教改革に対して抗いつつ、彼の諸植民地に秩序をもたらそうとした、というところで終わる。
ラス・カサスや彼のシンパ達の善い諸意図の如何に拘わらず、ピサロや彼の同類が野に放ったところの統治の類が、矯められることはありえなかった。」(G)
3 終わりに
最後に、事務的なことを記しておきます。
(スペインの)「カルロス1世」ではなく、(ドイツ王国ないし神聖ローマ帝国の)「カール5世」という表記を用いたのは、「フェリペ2世」ではなく「フィリップ2世」という表記を、この前のシリーズで用いたのと同じ考え方からなのであり、ご理解いただけると思います。
また、Indianの訳語として、「インディオ」ではなく、「インディアン」を用いたのは、北アメリカ大陸でのIndianについての記述も出てくるからです。
それなら、むしろ、「インディアン」で統一しようと考えた次第です。
なお、「どうして、南北アメリカ大陸の全スペイン植民地の中で、北端のカリフォルニアにおいて、最も醜悪な土着民統治が行われたかのか」について、その後、もう少しもっともらしい仮説に到達したのですが、それについては、24日のオフ会の際の「講演」で申し上げたいと思います。
(完)
カール5世の帝国(その11)
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