太田述正コラム#7436(2015.1.20)
<人間主義の起源(山極寿一説)>(2015.5.7公開)
1 始めに
 昨日のディスカッションで予告したうちの二個目の記事(インタビュー)
http://digital.asahi.com/articles/ASH1F5TYWH1FPLBJ003.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASH1F5TYWH1FPLBJ003
の紹介です。
 中身は、京大学長の山極寿一教授のインタビューであり、表記の観点から面白いと思った次第です。
 なお、山極寿一(1952年~。学長:2014年~)は、「東京都出身。都立国立高校を経て、京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A5%B5%E5%AF%BF%E4%B8%80
という人物です。
2 人間主義の起源(山極寿一説)
 「人間は狩猟によって進化し、狩猟の道具を戦いに使うことで、戦争に明け暮れるような社会を作ったという観念・・・いまだに人々は・・・信じて<おり、>・・・政治家も利用しています。
 しかし、事実は違います。人間はチンパンジーとの共通祖先から分かれ、500万~700万年は独自の進化の道を歩んできました。でも、道具が発見されるのは260万年前からです。しかも、武器ではなかった。石を打ち欠いて、そのかけらの鋭利な部分で動物の死体から肉をはがしたり、骨を割って骨髄を取り出したりするのが、恐らくその石器の使用目的だったわけです。
 道具が狩猟に使われるようになったのは、わずか50万年ほど前です。最初は殺傷力の弱い、槍(やり)のようなものです。大規模な狩猟が始まるのは、現代人になってからで、20万年前をさかのぼらないわけですね。
 狩猟能力が、武器によってあっという間に進化したのは確かでしょう。でも、人間同士が戦いを起こすには、さらに時間が必要でした。人間が武器を使って集団で戦い合った証拠は、せいぜい1万年ほど前でしか見つかっていません。これは人類が狩猟から、自ら食料を生産し、それを貯蔵して食べるという時代、定住して自分たちの土地を持つという時代になってからです。
⇒狩猟採集時代には戦争がなかったという説の強力な助っ人登場ですね。
 山極教授の、この点に係る論文等(典拠)がネットにアップされていないものでしょうか。(太田)
 なぜ集団間の戦争に至る能力が、人間に高まったのか。大前提は、共感という能力ではないかと思っています。人間の家族は、共感によって作られています。また、家族は単独ではあり得ず、複数が集まって共同体を作ります。それはどんな狩猟採集民でもそうです。複数の家族が集まり、共同体を作ることが、生きるために欠かせないわけです。
 しかし、ゴリラもチンパンジーも、どちらかなんですね。ゴリラは一夫多妻の家族的な集団を作って、共同体がない。チンパンジーは複数のオスとメスが含まれる数十頭の集団がある。でも、その中に家族はありません。
 なぜなら、家族と共同体は相反する原理でできています。家族は、親は自分の子どもが誰よりも可愛く、子どもは親が誰よりも大切というのが原則。依怙贔屓(えこひいき)が当たり前の集団なんですね。だから何かあげても、お返しを期待しないでいい。
 しかし、共同体は互酬性が当たり前です。何かあげればお返しが来るし、何かしてもらえばお返ししなければならないと思う。そういう心でつながっているわけです。それは同じような共感ですが、原理が違う。人間はうまく両立させながら、生きてきたのです。
⇒このくだりについても、典拠を知りたいところですが、二つを共感(empathy?)という同じ言葉で括ってはいけないのではないでしょうか。
 山極教授の言うゴリラの「共感」は利己的遺伝子説で説明できる、いわゆる本能的なものであるのに対し、チンパンジーの「共感」は、人間主義の原初形態であるとも言えそうだからです。
 もっとも、以前に(コラム#7233で)紹介した説では、チンパンジーは2層目の人間主義、ゴリラや人間といった類人猿はより高度な3層目の人間主義を備えているとされていたわけであり、このあたり、交通整理が必要ですね。(太田)
 なぜ、そんな変な集団を作ったのか。ゴリラかチンパンジーのような集団でよかったのではないか。ここが問題で、実はそれではやっていけない事態が起こりました。人間が熱帯雨林を出て、樹木のない土地へと足を伸ばしたからです。
 熱帯雨林は年中緑があって、豊富な食料がある。樹木の上なら地上の大型肉食獣から逃れて安全な場所で休める。
 でも、熱帯雨林を離れると、食料はまばらに分散し、乾期になるとなかなか得られない。だから、遠くまで足を運ばないと必要な食料が得られないわけです。また、地上の大型肉食獣にも狙われる。
 食料と安全性という点から非常に不利です。だから、食料を集めるためには、能力が近い小さな集団で動かなければならなかっただろうし、安全という面では、大きな集団のたくさんの目で警戒しなければならなかったでしょう。
 この二つの相反する課題を乗り越えるために、人間は結論から言えば、家族と、複数の家族が集まる共同体を作らざるを得なかったわけです。しかも、これは基本的には子育ての集団でもあります。
 恐らく、サバンナに出てきた人間は肉食獣に子どもを狙われ、たくさんの子どもを失った。そのため、子どもを増やさなければならず、授乳期や出産間隔を短くして、多産になったわけです。なおかつ、人間の赤ちゃんはなかなか成長しませんから、お母さん1人では育てられなくなった。複数の家族が集って、育児集団を作らなければならなかったわけです。
⇒では、チンパンジーはどうやって上述の「人間主義の原初形態」を獲得した、というのでしょうか。
 また、狩猟採集社会は育児の観点からも母系大家族制だったという認識が私にはあるのですが、この山極説だと、キブツに似た制度であったということになり、首を傾げざるをえません。(太田)
 そうすると、いろんな分担をするようになる。食料をとりに行くもの、集団を守るもの、育児をするもの、居住条件を整えるもの、というように。そうしながら、自分の子どもに対して与えていた共感能力を、子ども以外の大人や他集団にも向けながら、生活力を高めていったはずです。複数の家族を含む共同体ができあがる時点で、人間は相当に高い共感能力を備えていたはずです。
 こうした高い共感能力に加え、さらにいくつかの契機が重なったと僕は思います。具体的に言えば、一つは言葉。言葉は、時間と空間を越える能力を持っています。自分が体験していないことを誰かに伝え、それを自分のことのように思い込むことができる。比喩もできる。そういうことによって、想像力が生まれ、それまでとは比べものにならないぐらい高められた。
⇒私は、人間は類人猿一般の3層目の人間主義よりも更に高度な、いわば、4層目の人間主義を備えていることを示唆しつつ、それを備えるに至った契機として、トバ・カタストロフ理論に注目したところであり、トバ・カタストロフの折に、人間は、言語能力も獲得したのではないか、と(コラム#7233で)記したところです。
 このあたりについては、現状においては、いかなる説を立てようと、仮説にとどまらざるをえないでしょうね。(太田)
 次に定住生活。それまでは狩猟採集で移動生活を送ってきたわけです。移動するため、持ち物が限られ、自分の所有物にしてしまうと、持って歩かなくてはならなくなる。だから、ほかの人たちとの共有が当たり前になる。
 また、獲物を追って移動するわけですから、集団の大きさや密度が限られてくる。集団同士、個人同士の出会う頻度が少なく、所有物が個人に帰されるものでなければ争いはあまり起きません。しかも、争いが起きたら離れ合ってしまえばいい。実際、現代の狩猟採集民はそういう解決の仕方をしています。
 しかし、あるときから定住生活が始まった。土地に投資し、そこで食料を蓄え、環境が悪くなった時期を耐えることの方が、移動生活より有利な時代がたぶんやってきたんだと思います。
 1万数千年前ごろから、だんだんと多くの人が定住するようになりました。そうすると、農耕は水場の権利や肥沃(ひよく)な土地が大切ですから、そういったものをめぐり、集団が住む土地の間に境界がひかれるようになる。こうした境界などが、争いのきっかけになったと思います。
⇒戦争の起源を農業/定住社会に求めている点でも山極教授はイイ線を行っています。(太田)
 なおかつ重要なのが、集団の規模を保つために、死者にそのルーツを求め、死者を仲間に加え始めたことです。現代の狩猟採集民は墓を作りません。墓は、祖先によってこの土地は守られているという考え、その土地の権利を自分たちで主張する標識にもなります。
 人と人との結束を強めるためにも、祖先は必要です。ほとんど会ったことがなくても、祖先が同じだということで家族のように付き合える。祖先という目印をもとに、互いに助け合い、敵に立ち向かうという精神が育まれるわけです。
 共感能力は本来、人間の協力を高め、一つの行動に向かわせるために利用されてきました。それが、言葉、定住生活、死者によって爆発的に高められ、共同体を脅かす敵に対し、一斉に向けられるようになったと僕は思っています。
⇒ネアンデルタール人は既に墓を作っていましたし、人間についても、狩猟採集時代の10万年前の墓が発見されている
http://en.wikipedia.org/wiki/Burial
ことからして、ここは、山極教授、ご乱心では?(太田)
 しかし、自然界にもう人間の敵はいなくなってしまった。つまり、人間は自分たちの生活を拡大するために、今度は人間自身を敵にしてしまった。
 それは人間の進化の中では、極めて最近のできごとだと思います。いったん身についた共感能力は、なかなか衰えません。僕はいうなれば、アレルギーみたいなものだと思っている。病原体の刺激に反応するはずの免疫力が、本来の刺激がなくなってきたときに別のものに向かい、爆発を起こす――。それが、いま我々が直面している事態なのではないか、と。」
⇒ここは、完全に不同意です。
 (日本列島を除く世界の大部分における)農業/定住社会化に伴う、戦争を含む紛争の多発化により、人間に本来備わっているところの、4層目の人間主義が抑圧されるに至った、という私の仮説の方が、自分で言うのはおかしいけれど、より説得力があるのではないでしょうか。(太田)
3 終わりに
 ずっと以前(コラム#5917で)、山極教授の安全保障観を批判したことがありますが、「京都学派」の後裔たる京大の学者達の多くも、「東京学派」の後裔たる東大の学者達の多くと同様、今や、平均的な日本国民並の安全保障音痴に堕してしまっており、そのことが、彼らが唱える、人間ないし人間社会に係る説に歪みを、とりわけ彼らの研究の周辺部分において、もたらしているような気が私にはします。
 山極教授の場合、その説には参考になる部分があるだけに、特に残念に思います。