太田述正コラム#7440(2015.1.22)
<カール5世の帝国(続)(その3)>(2015.5.9公開)
「その文化的感受性と多様性への敬意(appreciation)によって知られるフランシスコ法王が、カリフォルニア沿岸部における土着の文化を抹殺することにかくも大きな役割を演じたところの、セラに聖人称号を付与することを選んだことには違和感を覚える。・・・
他の多くの土着諸集団同様、アクジャチェメン族(Acjachemen)<(注13)>は、パンヘ(Panhe)<(注14)>やその他の小さい諸村から追い立てられ、その地方の伝道所・・この場合は、サンホアン・カピストラーノ(San Juan Capistrano)伝道所<の敷地内>・・に吸収された。
(注13)現在のカリフォルニア州のオレンジ郡とサンディエゴ郡にまたがって生息していたインディアン部族。彼らをカリフォルニア州は部族と認定したが、連邦政府はまだ認定に至っていない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Juane%C3%B1o
(注14)アクジャチェメン族の諸村のうちの最大のものの一つで、8,000年の歴史がある、聖なる、儀式のための、文化的な、そして埋葬用の、場所であり、現在のサンディエゴ郡の沿岸から6km内陸に入った二つの川の合流点にあった。1769年にスペイン人がやってきた時点で人口300人と推定されている。
この部族は、狩猟採集生活を営んでおり、パンヘ周辺では、川魚を漁労していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Panhe
彼らの言語、彼らの生活諸様式の多く、及び、彼らの部族の名前すら、が消去された。
彼らは、この伝道所<の命名>によって、フアネーニョ(Juaneno)インディアンとして知られるようになり、最近になって、ようやく、彼らの祖先からの名前を回復するに至った。
彼らはまた、彼らの言語を回復し、その使用を復活しようと試みている。
とはいえ、ローマカトリック教会の福音主義の歴史の故に、アクジャチェメン族は、その大部分とまではいかなくても、多くがカトリック教徒だ。
また、彼らの先祖達が自分達の諸様式を放棄するよう強いられたとはいえ、彼らの過去についての書かれた諸記録は、何であれ、詳細な家系図諸記録をつけたところの、宣教師達由来のものが殆んどだ。・・・
<更にまた、>伝道所群が、異なった原住アメリカ人諸集団を混淆させ、彼らの全てに彼らの文化的アイデンティティを擲つことを強いたため、これらの諸集団の多くは、連邦政府が認める諸部族たるべき継続的な文化的・地理的アイデンティティの諸基準を充たすことができず、かかる認証が授与するところの沢山の諸便益を享受できていない。
一度目は白人の伝道所群によって、そして二度目は米国政府によって、彼らの文化が盗失されたことは、カリフォルニアの歴史の中での最大の痛ましい諸皮肉の一つだ。
法王は、セラの列聖を声明する中で、セラの「西部の福音伝達者(evangelizer)」としての役割に言及した。
しかし、多くの人々は、彼の役割に関し、説得による福音主義よりは強制的改宗の一種、という要素の方が大きかったと見ている。
私は、法王はこのことを自覚している。と確信している。
カトリック教会は、過去において、少なくとも、カリフォルニアの初期の伝道史に関して、若干の深刻な諸問題があったことを認識してきた。
恐らく、法王庁の観点からは、それは遺憾なことではあっても、物語の小さい部分でしかないように見えるのだろうが、ここカリフォルニアでは、原住アメリカ人達に与えた取り返しのつかない害悪を、容易に矮小化することはできないのだ。」(B)
⇒「「どうして、南北アメリカ大陸の全スペイン植民地の中で、北端のカリフォルニアにおいて、最も醜悪な土着民統治が行われたかのか」について、その後、もう少しもっともらしい仮説に到達したのですが、それについては、24日のオフ会の際の「講演」で申し上げたいと思います。」とコラム#7430で記したところですが、繰り上げてここで回答しておきたいと思います。
(強制改宗の際に、改宗に応じなかった者は殺害した・・この日本語ウィキペディアの記述は他のウィキペディア(英語版)を典拠としている・・(コラム#7428)ことにまで踏み込んだ記事に、AもBもなっていないことは、もどかしい限りですが、その点には立ち入りません。)
原因は、北アメリカ大陸のインディアン諸部族は基本的に狩猟採集/移動生活を送っていたのに対し、(中部を含む)南アメリカ大陸のインディアン諸部族は農業/定住生活を送っていたことに求められる、と私は思うのです。
(かつてのパンヘは、その場所で年中川魚が捕れたから人々が定住していたというよりは、祭祀的目的で、そこに、常に、同じ部族の訪問者達が入れ代わり立ち代わり群れ集っていた、ということではないかと想像されます。)
ということは、スペイン人がやってきた頃、前者は人口が少なく人間主義的で平和的であったのに対して、後者は人口が多く非人間主義的で好戦的であった、と考えられるわけです。
だからこそ、スペイン人は、前者に関しては、伝道所内にいわば閉じ込め、強制改宗させようとし、それに従うインディアン達もおれば、従わずに移動生活を続けたインディアン達もいたでしょうが、どちらも抵抗らしい抵抗はしなかったのであろう一方、そんなことを後者に関してやろうなどとしたならば、全面的な武力抵抗を誘発し、収拾がつかなくなった可能性が高い、と考えられるのです。
(カリフォルニアのインディアン達にあてはまることは、基本的に北アメリカ大陸のインディアン達全体にあてはまるわけですが、仮に北アメリカ大陸のインディアン達も南アメリカ大陸のインディアン達と同じ状況であったとして、その場合、イギリス人等が、いかなる接し方を彼らとし、その植民地がどんなものになっていたか、を想像してみると面白そうです。)(太田)
(続く)
カール5世の帝国(続)(その3)
- 公開日: