太田述正コラム#7594(2015.4.9)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その4)>(2015.7.25公開)
 「大川<の>・・・拓殖大学での講義をまとめた著書『復興亜細亜の諸問題』・・・にはこうある。
 ・・・今日のアジアは、ヨーロッパの臣隷である。・・・奴隷に何の理想があり得るか<、と。>
 しかし・・・大川は・・・行動において、日本が列強に代わり武力による威圧や扇動、支配を行うべきだと教唆することはなかった。
 大川の述べるところでは、すべては「正直と親切」であり、それを徹底して海外の派遣地で暮らせばよいというのである。」(45~46)
⇒大川は、人間主義者として、(中野学校における(コラム#省略)と同様、)人間主義教育を大川塾で行った、ということです。(太田)
 「大川は1940年9月、・・・日中戦争の終結に向けた方針に政治的な一貫性がないことを指摘し、さらに「日本は南方において資源のみを求めるのか」という質問には「道徳者は、腹がみちていなければならない」と答えた。「腹がみちて」とは資源の充足を指す。「アジアの解放」を教える彼もまた、実利的に資源という焦眉の問題を意識せざるを得なかったのである。」(62)
⇒大川には、対ソ抑止のための兵站(資源)確保、という認識がないことが、ここからも伺えます。(太田)
 「大川塾生の・・・旅券の申請書(旅券自体ではない)を閲覧すると、・・・彼らの旅券の区分はすべて「公用」である。雇用者は外務省であり、渡航の便宜は十分に図られていたようである。・・・
 海外に派遣された大川塾生に対しては、主に在外公館関係者から指示が出された。ところが陸軍が南方作戦の準備を急速に進めるようになると事情が変わる。陸軍は語学に秀でて土地に溶け込んだ大川塾生を積極的に使おうとし始める。外務省もこれに応じる。そうして大川塾生がある日呼び出され、軍への協力を命じられる–そんなケースが開戦前後にしばしば発生する。何人かが開戦前、タイや仏印で軍の作戦予定地域を秘密裏に回り、兵用地誌の調査に携わった。同行したのは参謀本部から派遣された軍人や、外務省の書記生を装った中野学校出身者だった。・・・
 <1941年7月の南部仏印進駐以降、大川塾生達の多くは、>南方総軍に奉任官待遇で勤務する軍属となった。・・・
 「奉任官」としての給与は月額85円、大卒の銀行員の初任給が70円の時代である。これに戦地加算があったから、年齢の割にかなりの給与だったようだ。・・・
 ・・・開戦の深夜、大川塾生のあるものはバンコク郊外に上陸する日本軍を出迎える一隊におり、ある者は日本軍の船団が到来するタイ南部マレー半島の岸辺の町にいた。彼らは開戦直後のマレー作戦を裏面で支えることになる。・・・
 外務省、軍だけでなく、民間でもかねて開戦準備に絡む動きがあった。満州国治安部に在籍していた五嶋徳二郎という人物が、1940年、バンコクに来たのはその一例といえる。中央大学卒業後、・・・大同学院<(前出)>を卒業して奉職していた。彼がいた治安部は”満州国の謀略の本陣”ともいわれていたが、満州国政府と参謀本部の了解のもと、開戦前に満州国官吏の身分のまま、昭和通商に入社したのである。バンコク入りの目的は情報活動だった。」(66、68、82~83、92)
⇒先の大戦において、他の主要国とは違って、日本にはついに内閣直属の中央情報機関ができませんでしたが、大川塾生の外務省と陸軍との間での(両省間に公式の協定的なものがあったとは思えないのに)融通無碍な活用の仕方を見るにつけても、日本は諜報活動も日本型政治経済体制の、エージェンシー関係の重層構造で行いつつ、開戦直後の東南アジアの軍事的席巻をものの見事に成し遂げた、と言えそうです。
 また、五嶋徳二郎は純粋な民間人とは言えないけれど、当時の日本の諜報活動が、純粋な民間人たる日本人をも巻き込んだ形で行われ、多くの日本人が積極的に官側の期待に応えて活躍した事例が(引用はしていませんが)この本で紹介されているところ、エージェンシー関係の重層構造が、官民の垣根を越えて諜報面で見られた、と言えるでしょう。(太田)
 「タイのルアン・ピブン・ソンクラム<(注7)>首相は親日的とされていたが、国自体は歴史的にイギリスとの関係が深く、親英的である。・・・急増する日本人がタイ社会に警戒の念を惹起しており、「親英九割、親日一割」(<駐タイ>武官室の・・・大佐の表現)がタイを覆う空気だった。・・・
 (注7)ルワン・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram。1897~1964年。タイ首相:1938~44年、1948~57年)。陸士を12番目の成績で、参謀学校を首席で卒業し、特典としてフランスに3年間留学。
 「第二次世界大戦勃発後の1940年6月12日に、ピブーンソンクラームはフランス – タイ、日本 – タイで同じ日に相互不可侵条約を締結し、中立政策を吹聴した。しかしドイツがフランスを占領するとピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、同年9月10日、フランスと対仏国境紛争を開始した<が>・・・紛争は翌年までもつれ込んだ。1941年日本がこの仲介に入り、5月9日には東京条約が締結され、フランスがタイに旧タイ領の4県を返還することで同意した。同年7月28日この功績によりピブーンソンクラームは元帥に昇格し、以降は中立政策を吹聴したが、10月に日本とタイが両国の公使館を大使館に格上げしていることなどから、以降は日本寄りになっていったと考えることが出来る。
 1941年12月・・・5日と7日には日本の坪上貞二大使が日本軍のタイ通過を求めてピブーンソンクラームを訪れたが・・・不在であった。これは・・・日本のみに便宜を図って<英国>の恨みを買うのを恐れたためである。結果、同8日には日本は強引にタイ領通過をもとめて日本軍をタイ領に侵攻させた。日本軍は南タイのソンクラー、パッターニー、およびバンコク南東部のプラチュワップキーリーカンに軍を導入。各地で文民・軍人を問わず抵抗運動が起きタイ側は183人が死亡、日本側は141人が死亡した。ピブーンソンクラームは同11日には日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を承認した。・・・この協定ではタイが日本に協力することを要求していた一方で、機密事項として日本はタイの失地回復に協力するとしていた・・・。ピブーンソンクラームは、・・・1942年1月8日には<英>軍が首都・バンコクを爆撃したのを機に25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻し英国、米国に宣戦布告。タイは枢軸国となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0
 <1941年12月>8日・・・6時20分、日本軍が<タイのブラチュアップキリカン(プラチュワップキーリーカン)(注8)に>上陸し始めると、直後からタイ<治安部隊>とぶつかった。・・・
 (注8)「プラチュワップキーリーカン県・・・はマレー半島の北部にあり、タイの県の中でも格別に狭くなっている。特に県庁所在地の南部においてはタイランド<(シャム)>湾からミャンマー国境までは、13kmしかな<い。>・・・日本軍が1941年12月8日に・・・上陸した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%9C%8C
 この上陸や、ナコンシータマラート県への上陸(下出)については、マレー作戦の日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6
には記述がない。
 8日は戦闘に明け暮れ<たが、>・・・行方不明だったピブン首相は8日午前9時頃、・・・<駐タイ日本>大使と面会した。8日昼頃には日タイ攻守同盟<(注9)>が成立、午後2時ころには末端に下達された。だがプラチュアップキリカンに届くのは遅れた。通信線の切断のためだった。・・・
 (注9)日泰攻守同盟条約。署名:1941年12月21日(バンコク)、効力発生:1941年12月21日。「タイは、・・・日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後の・・・国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、・・・<仏印>に日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となった(タイ・フランス領インドシナ紛争)。翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによってタイは旧領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。・・・アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。・・・イギリス及びアメリカ軍が、翌1942年(昭和17年)1月8日からタイ国内の都市攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。・・・
 <この>条約は1945年(昭和20年)9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴うタイの敗戦により破棄された。・・・タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴え、1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B3%B0%E6%94%BB%E5%AE%88%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%9D%A1%E7%B4%84
 日本軍は86人の死者を出し<てい>た。停戦時の日付は9日、時刻は午後5時を過ぎていた。・・・約30時間に及ぶ戦闘だった。・・・
⇒玉居子は、下掲のように、ナコンシータマラートへの上陸や同じく上陸地であったシンゴラにも言及しているのですから、それぞれでの死者数にも触れるべきでしたし、できうれば、タイへの上陸に係る全死者数にも触れるべきでした。
 この際、ついでに記しておきますが、玉居子の記述は行きつ戻りつがあって読みにくいところ、この本を出版した平凡社ともども、もう少し、校訂を念入りにして欲しかったと思います。(太田)
 大川塾生は開戦劈頭、「戦死」することはなかった。だが危険がまったくなかったわけではない。<日本軍>上陸地点の一つ、ナコンシータマラート<県(注10)>では在留民間邦人6人がタイ警察によって虐殺されている。スパイと誤認されてのことだった。・・・
 (注10)ソンクラー県(シンゴラ県)(下出)の北隣の県。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E7%9C%8C
 シンゴラ<(ソンクラー=ソンクラ)(注11)>ではイギリス領事館の情報部員が殺されていた。日本軍が略式裁判にかけ、処刑したのだった。」(93、106~108、112~113)
 (注11)ソンクラー県は、「マレー半島東海岸、英領マレーとタイ領の国境から北方の地点にある。」
http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/malay/malay1.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E7%9C%8C
 「タイ領内のシンゴラ(ソンクラ<->)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6 前掲
 上記ウィキペディアは、シンゴラ県とその東南部の、やはり英領マレーとの国境沿いのパタニ県(パッターニ県)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%9C%8C
への上陸についてのみ言及している。
(続く)