太田述正コラム#7596(2015.4.10)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その5)>(2015.7.26公開)
「ビルマ工作の起点、「南機関」・・・の始まりは、参謀本部付だった鈴木敬司<(コラム#5312、5790、5792、5804)>大佐が、1940年(昭和15)3月、援蒋ルート「ビルマルート」遮断の研究を命じられたことにある。ただ彼が研究を命じられたことですぐに南機関が発足したわけでない。彼は以後、独断でビルマ工作を実行に移していくのだ・・・。その鈴木大佐が研究の命を受けてから、強引に実践へと引っ張った点にビルマ工作の特徴のひとつがある。「ビルマルート」はラングーンからマンダレー経由、中国・昆明に至る、イギリスによる蒋介石支援の道である。これを遮断するというのだから、日本のビルマ工作が、中国との戦争を有利に運ぶ目的で始まったことは明白である。すなわちビルマ工作はビルマ独立が目的ではなく、あくまで日本に利するよう、ビルマの独立運動を使おうというものとして考えられた。」(120~121)
⇒岩畔が、八面六臂の活躍をした中で、岩畔機関を通じてインド亜大陸独立をもたらし、また、鈴木が南機関を通じてビルマ独立をもたらす、という歴史的偉業を成し遂げたことは、どちらも、日本の陸海軍のための資源の確保とは殆んど関係がなかった・・ビルマに関しては援蒋ルート遮断目的があった・・ところ、それは、二人の、陸軍の一員という立場を超えた、高い見識と下剋上的尽力の賜物であった、と称えられるべきでしょう。
(他方、米領フィリピンや仏領インドシナや英海峡植民地や蘭領インドネシアの独立は、日本の陸海軍のための、資源、ないし資源ルートの確保を目的とした、陸軍の侵攻・占領の副産物に過ぎません。)(太田)
「工作の初期、鈴木大佐<は>・・・上海にいた・・・満鉄調査部<員1名と>興亜院<員1名の>・・・二人の協力者<を>・・・得た・・・<が、>二人の資金の出し手は塩水港製糖社長・岡田幸三郎<(注12)>となった。岡田は作家の遠藤周作の妻・順子の父である。・・・
(注12)1888~1972年。俳優岡田英次のおじでもある。「千葉県・・・に生まれた。・・・長崎高商卒業。慶大理財科修業。塩水港製糖入社。<取締役等を経て1939年>社長」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%89%E9%83%8E
塩水港(えんすいこう)精糖は、「1903年(明治36年)に台湾塩水港庁下岸内庄(現・台南県塩水鎮所属)に設立された製糖会社が源流。日本で3番目に古い伝統を持つ製糖会社である。また、台湾での創業から社名がそのまま単独で受け継がれている、数少ない企業の一つである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E6%B0%B4%E6%B8%AF%E7%B2%BE%E7%B3%96
鈴木はタキン党と呼ばれる独立運動の組織に近づいた。仲介したのはビルマで布教を行っていた日本山妙法寺<(コラム#5864)>の永井行慈上人である。この妙法寺の僧侶たちはのちにインド工作の岩畔機関・・・に協力するなど、アジア主義の思想に共鳴し、活動していた。・・・
鈴木は、ラングーンで<タキン党員達>・・・と会い、日本の支援を独断で約束し<た。>・・・
1941年(昭和16)2月1日、大本営直属機関として陸海軍の人員をもって南機関が設立された。対外的には、「南方企業調査会」を名乗った。会の実態を装うために会則をつくり、会長には第一次近衛内閣で農相を務めた有馬頼寧(よりやす)を据えた。機関長には鈴木大佐が就任・・・
鈴木大佐らはバンコクに移り、本部以下、<タイ国内にいくつかの>支部<が置>かれ、「南方企業調査会」と偽装して、主にビルマ国境に面した地域で調査に勤しんだ。
一方、ビルマからは続々とタキン党員が脱出し、やがて「30人の志士」と呼ばれる者たちが南機関と接触、海南島・・・に集結し・・・軍事訓練<を受けた。>・・・
南機関は開戦目前の11月24日、大本営直属から在サイゴンの南方軍直轄となる。・・・
戦争が始まると、今度はビルマを窺う第15軍隷下に入り、謀略はここで軍事作戦と同一線上のものとなった。」(122~125)
⇒米国では国防省の設置は先の大戦後の1947年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%9B%BD%E9%98%B2%E7%B7%8F%E7%9C%81
ですが、米国に比べて国力の劣っていた英国は先の大戦中の1940年に国防省を設置しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ministry_of_Defence_(United_Kingdom)
英国よりも更に国力に遜色があり、なおさら国防省を設置すべきはずの日本は、ついに設置することなく、日支戦争及び太平洋戦争を戦ったわけですが、南機関が陸海合同で作られたり、その後、そんな南機関が、陸軍の機関となり、しかも、南方軍直轄から更に第15軍隷下、と融通無碍に所属替えを重ねさせられたり、を見るにつけ、陸海軍の統合的整備・運用など調整で何とかなる、と当時の政府関係者が楽観的に錯覚したことが強く責められない気がしてきますね。
なお、このくだりで登場する、日本山妙法寺/永井行慈にしても、塩水港製糖/岡田幸三郎にしても、官と民、民間団体(企業・宗教団体)とそれに属する個人、それぞれの垣根があってなきがごとし、というのが日本型政治経済体制・・そもそも政治と経済の間に垣根があってなきがごとしです・・の特徴であるところ、そのあたりの霊妙なる機微がお分かりいただけるのではないかと思います。(太田)
(続く)
『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その5)
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