太田述正コラム#7600(2015.4.12)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その7)>(2015.7.28公開)
「モールメンを占領しても独立に至らなかったことを、BIA関係者は「モールメン事件」と呼んでいる。これ以降、ビルマ側の対日不信は鬱積し、やがて敗戦の年にアウンサンらが起こす対日蜂起につながってゆく。・・・
<とまれ、>バンコク出発時には200人だったBIA兵士の数は、5000人ほどに膨れ上がっていた。その数を正規兵約1万人、平服の便衣兵約10万とする記録もある。・・・ラングーン<で>・・ビルマ人はBIAを熱狂的に迎えた。イギリスの分断統治<(注15)>の結果、ビルマでは経済をインド人、華僑が牛耳り、少数民族のカレン人<(注16)>が武器を持ち、ビルマ人には武器がなかった。そのため武器をとって戦ったBIAの存在は画期的なものだった。彼らとともにビルマに入った日本軍はさながら解放軍の扱いを受けた。・・・
(注15)英国は、「イスラム教徒のインド人<等>を入れて<ビルマを>多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC
(注16)Karenはビルマ東部辺境に住む民族であり、現在、約500万人でありミャンマーの人口の7%を占め、戦後、独立闘争、現在は自治権獲得闘争を続けており、その過程でタイに相当数が流入した。
なお、英印軍の兵士になれたのは、カレン人中の少数派であったところの、キリスト教への改宗者達であり、多数派の仏教徒にはこの種の「特権」は与えられなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Karen_people
⇒教育を含む、ソフトやハードのインフラ投資の貧弱さと並ぶ、英国の省力化非人間主義的植民地統治の特徴がこういった分割統治であり、先の大戦後の過早な大英帝国の瓦解とも相俟って、その後、拡大英国を除く、旧英植民地諸国/諸地域において、紛争を多発させることとなったわけです。(太田)
BIA司令官である以前に、帝国陸軍の人間である鈴木大佐は、自身の野心と軍人としての義務–上官の命令に忠実である–に引き裂かれていた。
独立が達成されない状況に民間出身のBIA参加者<たる日本人達>も苛立ちを募らせた。・・・
<1942年>6月11日、「南機関処理要領」なるものが出された。鈴木大佐は一週間後の18日、近衛師団司令部付となって内地に帰った。独断と功績のゆえにビルマを離れざるを得なかった。7月、北部ビルマに攻め上るマンダレー作戦を終えたBIAでは、日本軍主導で3万人近くの人員が整理された。約5000人からなるビルマ防衛軍(BDA)に改組され、司令官にアウンサンが就任、BIAは消滅した。」(141~142、146~149)
⇒「「野心」と軍人としての義務」だとか「「独断」と功績」とか、玉居子は、具体的根拠を明らかにしないまま、鈴木に対していささか酷な文学的な表現を使ってくれたものです。
私の考えは、日支戦争/太平洋戦争期において、帝国陸軍も、岩畔や鈴木のような陸軍将校も、人間主義的に行動したところ、対ソ(対赤露)抑止のために人間主義的に行動した帝国陸軍そのものと、インド人達やビルマ人達のために人間主義的に行動した岩畔や鈴木のような陸軍将校とでは、人間主義の次元・・広範度/抽象度・・が違っていたために、必然的にこの異次元間で様々な軋轢が生じた、というものです。
インド解放を目指したところのインパール作戦は、帝国陸軍、というか日本政府、が、岩畔らの人間主義の広範度/抽象度まで降りてきてとった例外的行動であった、と言えるのではないでしょうか。(太田)
「<大川塾>二期生・友田光男は・・・バンコク<の日本>・・・大使館<から、>・・・昭和通商に籍を置いて・・・<日本の>ビルマ・・・軍政部の一員となるよう指示され、ビルマに向かうことにな<り、>・・・4月、・・・軍政部総務部庶務課に配属された。・・・彼は・・・ビルマの学生運動に関わることを第一の仕事とした・・・。・・・
やがて、<彼は、>複数ある学生運動の組織を糾合して統一的な組織にすることを思い描<いた。>・・・
<こうして、>友田らは・・・全国組織として「東亜青年聯盟(ビルマ)」を設立することになった。友田は<昭和通商員のもう一人の日本人>とともに顧問格で関わることになった。
名称の最後に「ビルマ」が括弧つきで挿入されたのは、アジア主義的な立場から友田<ら>が出した意見による。それは「アジア人が団結して欧米勢力をアジアから駆逐すべき」というものだ。
⇒アジア主義そのものについては、私はお伽噺の類として、全く評価していません。
独立を維持した日本やタイ、半植民地であった支那、欧米/日本の植民地であった諸国/諸地域、という点だけとっても、アジアは一つではないからです。(太田)
友田は・・・<ビルマの青年達に、>軍政部は関知しない、ビルマ独立のためにこそ<それは>必要なのだと話した。
友田のそんな熱意とは別に、軍政部の方では青年運動をやはり戦争遂行との関連に重きを置いて見ていた。・・・<すなわち、>青年層の指導を通じて「ビルマ青年をあげて戦争に協力させ、且つ全住民の推進母体たらしめる」という意図があった。・・・
青年運動に本腰を入れる前、友田は軍政部に病気欠勤の届けを出した。軍政部との関係を断ちたかったからだ。そしてビルマ人を前に彼は「(青年運動に)自分は同志として参加する」と話すようになる。
友田はビルマで布を腰に巻き付けるビルマ服、ロンジーを着て過ごした。・・・
友田は満鉄バンコク事務所長からビルマ軍政部敵産管理課長に転じていた<人物>のあっせんでラングーン市内に建物を借り、これを「東亜青年聯盟(ビルマ)」の本部とし、6月には正式に発足・・・という運びとなった。・・・
この時期、日本から訪ねてきた・・・<ある>人物・・・が、各地の大川塾生宛の言葉を伝えた。「大東亜戦争は日本の敗北に終るだろう。そのことを肝に銘じ、それぞれの国々に一人でも多くの変わらぬ友情を保ち得る心の友を作るよう努力せよ」というのだった。これが以後、友田の行動の指針となった。・・・
友田は、大川塾を模した寮の設置にも着手した。青年聯盟の幹部候補生を全土から募って訓練を施す「青年道場」である。・・・1942年9月に始まった。・・・彼は日本語の講義を担当した。」(150~157)
⇒1942年半ばにおいて、(玉居子は言葉を託した人物を明記していませんが、)大川が日本の敗戦を予見し、それを塾生達に伝えた、というのは極めて興味深いものがあります。
それにしても、ビルマ人達が、学生運動/青年運動の統一すら、日本人のおんぶにだっこで実現させてもらったところにも、英植民地統治によるビルマの荒廃を見出さざるをえません。(太田)
(続く)
『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その7)
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