太田述正コラム#7656(2015.5.10)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その3)>(2015.8.25公開)
「漢の時でも、六朝の時でも、・・・貴族の間の権力の争奪<は>あった<が、>・・・唐の晩年から・・・朋党というものが出来て、・・・それらは多少貴族の権力争奪とは色彩を異にして、各々政治上において好むところの人材を集めて、そうして権力を握るというような形に変って来た。それが北宋の時になると、ますますこの政治上の朋党が行われて来て、殊に盛んであったのは、王安石<(注3)>の党派すなわち熙寧党人と、司馬温公<(注4)>の党派すなわち元祐党人との争い<(注5)>であったが、それらは皆政治上の主張ということに重きを置くことになっ<た。>」(40)
(注3)1021~86年。「唐宋八大<名文>家の一人・・・1042年・・・進士となる。・・・1069年には副宰相・・・1070年には・・・宰相となり、政治改革にあたる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%89%E7%9F%B3
(注4)司馬光(1019~86年)。「『資治通鑑』の編者として著名。・・・1038年・・・に進士となる。・・・1085年・・・宰相とな<り、政治改革の否定を試みた>・・・が、在任8ヶ月にして病死した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%85%89
(注5)「当時は貨幣が広く流通しており、農民が税を納める場合にも貨幣で収めることがあった。しかし、納税期になると農民が一斉に売りに走るために買い叩かれてしまい、生活が苦しくなる。・・・これに対して<大地主・大商人たる>兼并が貸付を行い、・・・10割という利息を取り立てていた。これが払えなくなると土地を取り上げられてしまい、地主はますます土地を増やすことになる。また大商人たちも中小商人に対して同じことを行っていた。政治の主要な担い手である士大夫層は、多くがこの大地主・大商人層の出身であり、科挙を通過したものは官戸と呼ばれ、職役が免除されるなどの特権が与えられていた。・・・
新法に対<して>・・・激しい批判が起きた原因は新法により兼并の利益が大きく損なわれたからである。<政府が貸付を行う>青苗法は兼并たちが行っている貸付の商売敵となるし、・・・職役を課す代わりにその分を貨幣(これを免役銭と呼ぶ)で収めさせ<るとともに、>・・・元々職役が免除されていた官戸・寺院・道観(道教の寺院)・坊郭戸(都市住民)・・・などからも助役銭と称して免役銭の半分を徴収した<ところ、>・・・旧法派<を含め、>士大夫たち<は>多くこれら兼并の出身であり、一族の利益代表としての立場があったのである。・・・
<王安石と司馬光が亡くなってからの>時期になると当初の政策をめぐる論争という面影は無くなり、感情と強迫観念による権力闘争に堕していた。南宋では、<旧法党>の流れを汲む<人々>が主導権を握ったことで、王安石を初めとする新法党こそ北宋滅亡の原因であるとされ、それに抵抗した旧法党の人々は英雄扱いを受けることになった。道学を学び、朱子学を興すことになる朱熹も王安石を厳しく批判している。・・・中華人民共和国で唯物史観が主流になると、王安石は「果敢な政治改革を試みるも頑迷固陋な旧体制派に阻まれた悲劇の政治家」、逆に司馬光らは「地主・商人と癒着した封建的な旧体制そのもの」となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
⇒王安石と司馬光存命中の党争は、内藤の主張とは異なり、公益党と私益党の闘いと言うべきものであっておよそ政策上の論争の名に値しませんし、両名の死去後の抗争は、単なる権力闘争以外の何ものでもありません。
この党争の新しさを訴える内藤には申し訳ありませんが、そもそも、こんなことも、支那史においては、何度も繰り返されてきました。
時代を遡れば、戦国時代末期の秦における、紀元前356~338の商鞅による<法家の思想に依拠した>変法は、「旧来の貴族<が>・・・変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので商鞅を恨<み、>」彼の君主の孝公が死ぬと、「単なる権力闘争」はあっという間に終わり、彼は殺されてしまいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
また、時代を下れば、1898年に、「光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって<日本の明治維新に倣って>行われた・・・戊戌の変法」は、「保守派」が「西太后」を動かし、「百日」で粉砕されてしまいます。
このケースでは、「党争」の期間はあっという間に終わり、しかも、「単なる権力闘争」が起こった瞬間にケリがついています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E6%88%8C%E3%81%AE%E5%A4%89%E6%B3%95
(そうではない事例に気付いた方はご教示願いたいが、)支那において、権力者の前で、真の意味での政策上の論争が繰り広げられた事例など、諸子百家が活躍した春秋戦国時代でさえ、聞いたことがないところ、結局、王朝時代の支那では、全くなかったのではないでしょうか。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その3)
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