太田述正コラム#7676(2015.5.20)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その13)>(2015.9.4公開)
(2)附録
–清国の立憲政治(1911(明治44).5講演)–
「一体支那のような守旧国が立憲政治に対して興味をもつのは誠に不思議のようであるが、支那は大体において守旧国であるが、また時としては非常に急進の国である。・・・
⇒キリスト教にかぶれた太平天国の乱あたりが内藤の念頭にあったのでしょうが、ファシズムや共産主義といった「急進」主義がその後の支那を席巻することを予想していたかのような鋭い指摘です。(太田)
国運の盛衰なり・・・立憲政治<なり>が順当に行われる基礎になるものは何かというと、手短にいえば中等階級の健全ということであろうかと思う。・・・<そのことが、>どうしても支那人には分からない。・・・
<日本で>国会が開ける前、開設論に骨折ったのは、・・・維新前からの状態が相続して来ておって最下級の士族がやり出したのである。<そして、>国会が開けてから十余年の間、どういう種類の人が国会を組織する原動力になったかというと、<今度は、>大部分は最上級の農民である。そういう階級が日本にあったから、立憲政治がとにかく首尾よく行われ始めたのである。
⇒欧米の議会主義と中産(ブルジョワ)階級との関係に関する理論を下敷きにしているのでしょうが、「百姓・町人<と>・・・武士の下層(徒士)や足軽との身分移動もあった。ただし、武士の中上層には身分移動はほとんどなかった<ところ、>・・・徒士や足軽と百姓<・町人>上層との間にある程度の流動性があることに着目し、この階層を「身分的中間層」と呼ぶ考え方もある」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86
ことを踏まえれば、内藤は、日本には江戸~明治にかけて「身分的中間層」が国会の開設、運営を担った、と言っていることになります。(太田)
その後いろいろ変遷があって、大阪のような商工業の発展する処には別に一種の中等階級が出来て来ておる。しかしこれは全国から見るとまだ極めて微々たるもので、まず今のところではその新しい中等階級の存在を認むべきものは、東京とか大阪とか横浜とか神戸とかいう大都会だけであって、その他の処にはまだほとんど認められない。それはどういう人間であるかというと、つまり新教育を受けて一人前になった人間である。・・・
⇒そして、明治中期以降、この「身分的中間層」に、近代的教育を受けた大都市住民からなる、新「身分的中間層」が加わって行った、と内藤は言っているわけですが、むしろ、(ごく一握りであったところの華族以外の)大部分の国民の間で、士族に関して「髷の禁止や廃刀令や俸禄の廃止」が断行され終わった時点で、士族も含め、平民意識、すなわち、平等意識が確立した、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9A%8E%E7%B4%9A
と捉えるべきなのであって、日本では、国会の開設・運営は、その中の(高額納税者たる)平民上層が担った、と言うべきなのです。
それはともかく、内藤が、新旧「身分的中間層」がどのような人々であったかに全く触れていないのは隔靴掻痒の感があります。
「江戸時代の社会統合様式は、各地域・村・町ごとの自治に委ねられていた事が知られてい<る>が、その中でも・・・豪農・・・は、お上と農民(小作人)との間に挟まれた中間管理職で<あるところ>、支配者というよりも指導者としての色彩が強く、いかに生産性を高めるか・・・その為には小作人の活力・・・をどのように高めるか・・・といった事に頭・・・を使っていた・・・。・・・
江戸末期<の>・・・豪農<の>・・・武村広蔭<は、>・・・「農業は、天皇、将軍、諸侯、旗本の櫃のごときものであり、国の本である。人命を救い、魚中禽獣をも助ける。仏教で言えば功徳にあたる善行である。農民はおおみたからである。・・・農業への精励を動機づける欲心は、農業がこのような本質を持つものであるがゆえに、最も清いものである。」<とし、>・・・暦を基本とし、時々の気候をふまえ、地味を考慮し・・・特性を確認し、それに即した工夫を重ね<よ、と説いた。>」ところです。
http://web.kansya.jp.net/blog/2009/05/829.html
要するに、武村ら豪農達は、人間主義的指導を行い、彼らの指導を受ける一般農民達は、人間主義的営農を行った、ということが推察されるのです。
江戸時代末まで日本の人口の大部分を占めていた一般農民がそういう人々であったからこそ、「幕末期に来日した<ロシアの>ヴァーシリー・ゴローニン<が>・・・述べている<ように、>「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は<(若干の誇張があったとしても(太田)、)当時、既に>一人もゐな」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%98%E5%AD%97
かったのです。
当然、豪農達と同じ「身分的中間層」に属する下級武士達も人間主義的な人々であったはずです。
また、上級武士である大名達や幕府官僚達の人間主義性については既に触れたところです。
すなわち、このように、人間主義的な人々・・非阿Q的な人々と言い変えてもいいでしょう・・によって、少なくとも江戸時代において、既に日本のガバナンスが確立していたからこそ、明治維新以降の日本で、欧米的な立憲政治が、導入当初から機能したのです。(太田)
ところが支那では、・・・日本のように士族というような階級は支那にはない。読書人<(注15)>というものが謂わば一つの階級になっておるが、しかし読書人が日本の新教育を受けたところの新思想をもった人間と同一に見られない。
(注15)「士大夫」ないし「郷紳」を指している。
士大夫とは、「<支那>の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。・・・必ずしも科挙官僚に限ったことではなく、科挙を目標として学識を身に着けたということが、条件の第一と考えられる。・・・その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。明から清にかけて、士大夫が新たに郷紳という階級を形成し始める。郷紳は、基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力者としての意味合いが強調された語である。郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持した・・・「先憂後楽」と「陞(しょう)官発財」はどちらも士大夫の実態であった。・・・<後者については、>「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB
⇒阿Q的社会で、子供達に「日本の新教育」的教育を施したところで、彼らが人間主義的になるわけではありません。
そもそも、「新教育」など施さなくても、すなわち、「旧教育」の下でも、日本の子供達は人間主義的に人となっていたのです。(太田)
<また、>日本では士族と密接して最上級の農民があったが、支那・・・の百姓はどこまでも百姓で、百姓の中から国会などへ出て、新しい時代の中等階級を形づくろうということは、・・・むつかしいことである。・・・
⇒非人間主義的/阿Q的「読書人」達に収奪されたところの、支那の「百姓」達もまた、非人間主義的/阿Q的たらざるをえなかった、ということです。(太田)
<更に言えば、>日本では国会を造るについては、納税を以て選挙資格にしてある。ところが支那では人民の納税額が分っておるのはどこにもない。土地の税目などは無茶苦茶である。・・・百五、六十年も前の<諸書>・・・に某県の租税は一か年に幾万両収入があるということが書いてあると、今でもその通り取るのである。」(166、168~173)
⇒この話が事実であるとすれば、支那では、「読書人」による統治ならぬ収奪さえもが、いかに杜撰に行われていたかを物語って余りあるものがあります。(太田)
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その13)
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