太田述正コラム#7684(2015.5.24)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その17)>(2015.9.8公開)
 「これを要するに支那の立憲政治の根底となるのは、その輿論を恐れるという風習と、それから黄宗義の作った・・・民主思想と<支那>の習慣たる平等主義、殊に曽国藩らが実行した官民平等思想の実行、こういうものが従来の歴史上今度の支那の立憲政治の根底となって、それがつまりいかなる形においてかその結果を現すことだろうと思う。その結果が善くなるか悪くなるかということは、別の話であるから、ここには省いて、しばらくここで終って置く。」(191~192)
⇒彼の支那史に係る事実認識と解釈に誤りがあるのではないかという点を含め、私は、内藤のかかる指摘は全く評価していません。
 支那の自由民主主義化の手掛かりを、私は、かなり前から指摘しているように、支那における、北方の遊牧民的伝統にある、(軍事)指導者の壮年男性による選出、という民主主義的要素に求めているところです。
 但し、内藤が、支那の自由民主主義化に極めて懐疑的である点には同感です。
 内藤は、処方箋を提示していませんが、私は、中共当局は、自ら、人間主義化/日本文明の継受、という処方箋を捻り出し、支那の、自由民主主義化ならぬ、日本型政治経済体制化を図ろうとしている、と見ているわけです。(太田)
  –支那時局の発展(1911(明治44).11.11~14大阪朝日新聞)–
 「ある新聞の電報を見ると、北京などで日本が満州朝廷を満州に擁立して一運動を試みるというような奇怪な説があるようにも見える。しかしこれはもちろん日本の当局者としては、そんな愚かな考えを持っておるようなことはなかろう。支那の大勢は帰着するところ明らかであるから、大勢に逆らうということは、今日において最も不利益なことであって、もし日本がこういう事変に際して、支那に関する色々な未決な問題をこの際に解決しようとするのであっても、亡滅に瀕した朝廷を援助するなどということは、最も策の当を得たものではなかろうと思う。・・・
 もしこれを日本の勢力範囲たる地方に一主権者として迎えて置いて、新立国の深い猜忌を招いたり、また結局はその主権を我が手で奪わねばならぬようなまずいはめに陥らぬよう、あらかじめ熟慮して置かねばならぬと思う。」(213~214)
⇒20年後の満州事変、満州国の樹立、更にはその帰結、を予見していたかのような鋭い指摘ですね。
 それがまぐれ当たりだとしても、ここは素直に拍手を送っておきましょう。(太田)
  –中華民国承認について(1912(大正元).8.1太陽)–
 「中華民国<(注22)>という名<についてだが>、・・・
 (注22)「中華民国は、1911年の武昌起義に始まる辛亥革命において、1912年1月1日、南京において成立した(なお、国号については黄遵憲の「華夏」、劉師培の「大夏」、梁啓超の「中国」の他に「支那」や「大中華帝国」という提案もあったが、最終的には章炳麟の「中華民国」が採用された)。しかし、この時点では、北京に清朝が存続しており、「<支那>を代表する」政府が南北に並存する状況にあった。しかし、同年2月12日に清朝の皇帝、宣統帝である愛新覚羅溥儀が退位することによって、中華民国政府が<支那>を代表することになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
章炳麟<の>・・・「中華民国解」というものは、支那の昔からの種族の歴史を説いて、・・・どこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを説いておるのである。もちろん、「中華民国解」は、一つは満洲を排斥する上について、その議論を立てたので、満洲を排斥するのは、種族の上から排斥するので、もし満洲人が自国すなわち支那の主権を去ってしまって、そうして北京からその産出地へ引き退いて行ったならば、これは日本や暹羅(シャム)[タイ]などと同じくらいに見て差し支えないということを言っておる。
 ところでここに最も見遁すべからざることは、章炳麟の議論は、漢の時の郡県であった所を境界として論究すると、蒙古や、回部すなわち新疆や、西蔵地方というものは、これは漢の領土には入らなかったから、これを経営することは後回しにしても差し支えない。しかし朝鮮の土地は、これは漢の時の版図に入っておる。安南もやはり同様である。それでこの二つの民の土地は、その風俗が多く支那と同様であって、言語は違うけれども、その文字の読み方は頗る支那に近い。日本が文字を読むのに大に支那と違うようなのとは別である。殊に血統と言うと朝鮮の方はまだ幾らか雑であって、純粋の支那種族とは違うけれども、安南などは皆支那と人種が同じものである。・・・それでいよいよ中華民国という支那の民族に依って組織したる支那を恢復するという時になると、これらの土地をも恢復することは、中華の民族の職分である。殊に外国からして支配をされておって、非常に国運が衰えておるこの二つの国などに対しては、人道上よろしくこれを救助しなければいかぬものである。それからその次は緬甸(ビルマ)であるが、緬甸はこれは漢の時の版図には入らない。明の時になってから土司<(注23)>[近隣の諸民族の支配者に与える官職の総称]を沢山置いて、そうして雲南に附属させたが、その風俗は中華とは違うけれども、漢人の住居(すまい)しておるものが非常に多く、雲南地方の土司などとあまり変らない。
 (注23)「土司は、元代以降、<支那>と直接境界を接する諸民族において、ある民族が一国を形成しないまま、分立する各地の支配者が個別に<支那>王朝と交際する場合に、州・県の知事職や、衛所制にそった軍事指揮官の称号を受けた者たちを指す。清においては、さらにこれらを区分し、軍事指揮官の称号を受けた者たちを土司、州・県の知事職を受けた者たちを土官と呼ぶ。なお、土司・土官における「土」とは土着の意で、先祖伝来の所領において世襲でポストに着くことを指す。科挙を経て任官する官僚が、出身地のポストに赴任することが禁止され、数年の任期ごとに各地のポストを転々としたのを指して流官と称するのと対比した表現である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%8F%B8
 しかし元来これは支那の郡県として支配したことはないから、よろしくこれらは朝鮮の次として取り扱うべきものである。殊に外国人は緬甸に対しては安南ほど過酷にはしておらぬから、それはゆっくり救うてよろしい。・・・
 これは章炳麟の一個の考えであって、今日の中華民国というものと何らの関係が無いと言えばそれまでであるけれども、既に中華民国という名も章炳麟の考えを採用したのであり、章炳麟の主張は、革命党中の学生などには非常に有力なものである。」(218~221)
⇒章炳麟の漢人的・・まさに、漢の国民的、と言うべきか・・支那領域観は興味深いものがあります。
 (彼が、イギリスの植民地統治をフランスのそれよりも過酷ではない、と正しく見ていたのも面白いところです。)
 中華民国を、事実上、(国名ともども)継承した中華人民共和国が、「国」外に打って出たのが、朝鮮半島(朝鮮戦争時)とベトナム(中越戦争時)だけであるのは、中共当局の頭の中に、章炳麟的領域観の片鱗が残っている、ということなのかもしれません。(太田)
(続く)