太田述正コラム#7686(2015.5.25)
<アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ(その1)>(2015.9.9公開)
1 始めに
 「内藤湖南の『支那論』を読む」シリーズもまだ終わっていないのに、と叱られそうですが、スティーヴ・インスキープ(Steve Inskeep)の『ジャクソンランド–アンドリュー・ジャクソン大統領、チェロキー族酋長ジョン・ロス、そして米国での巨大な土地奪取(Jacksonland President Andrew Jackson, Cherokee Chief John Ross, and the Great American Land Grab)』のさわりを書評類を元に紹介し、私のコメントを付すことにしました。
 なお、インスキープ(1968年~)は、「ジャーナリスト<で、>・・・養子として育ての親に育てられ・・・ケンタッキー州モーヘッドのモーヘッド州立大学を卒業。・・・<前著(2011年)は、「Instant City: Life and Death in Karachi 」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%97
という人物です。
 また、アンドリュー・ジャクソン(1767~1845年。大統領:1829~37年)は、「<米>国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主で、第7代<米>大統領<で、>・・・民主党所属としては初の大統領であり、<庶民生まれの>最初の大統領<だったが、>・・・「・・・フロンティア」に暮らし、独立13州<以外からの>最初の大統領<であるとともに、>・・・史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領<、かつ、>・・・独立戦争に従軍した最後の・・・大統領<でもあった。>・・・<ちなみに、彼は、>スコットランド系移民の・・・夫妻の間に生まれ<たが、それは、>両親がアイルランドから移民して2年後のことであ<り、彼は無学だった。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3
という人物です。
 なお、彼は、「ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」とも称される<ところ>、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した<が、>当時においてはこの政策が汚職構造の打破<に資す>と考えられ、<以後>慣例化した」(上掲)ことで有名です。
A:http://www.washingtonpost.com/opinions/the-land-grabber/2015/05/21/4305ae1e-f285-11e4-bcc4-e8141e5eb0c9_story.html
(5月23日アクセス。書評)
B:http://www.npr.org/2015/05/19/407664385/cherokee-chief-john-ross-is-the-unsung-hero-of-jacksonland
(著者による解題と投稿集)
C:http://www.startribune.com/review-jacksonland-president-andrew-jackson-cherokee-chief-john-ross-and-a-great-american-land-grab-by-steve-inskeep/304719811/
(書評)
D:http://www.pbs.org/newshour/bb/new-book-explores-jacksons-dark-choices-american-expansion/
(投稿集)
E:http://thedianerehmshow.org/shows/2015-05-21/steve-inskeep-jacksonland
(本からの抜粋(プロローグ部分)と投稿集)
F:http://www.nytimes.com/2015/05/05/opinion/should-jackson-stay-on-the-dollar20-bill.html?_r=0
(著者によるコラム)
2 アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ
 (1)総括
 「1928年に米財務省は、初めてアンドリュー・ジャクソンを(グラヴァー・クリーヴランド(Grover Cleveland)<(注1)>に代えて)描いたところの、20ドル札を発行した。・・・
 (注1)1837~1908。大統領:1885~89、1893~97年。たたき上げでNY州司法試験合格。バッファロー市長、NY州知事。「歴代大統領で唯一、「連続ではない2期」を務めた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
 彼は、不正義な諸条約でもって、アメリカ原住民達に土地を明け渡すよう強いた。
 1830年に、ジャクソン大統領は、インディアン移住法(Indian Removal Act)<(注2)>に署名した。
 (注2)大統領に対し、米国南部において自治区(autonomous nations)を形成していたところの、チェロキー族、セミノール族等のインディアン諸種族・・文明化された5つの種族(Five Civilized Tribes)・・と、彼らのミシシッピ川西側への移動(removal)のために交渉する権限を付与した法律。
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_Removal_Act
 それは、全原住民をミシシッピ川の西へと押し出す政策を支持したものだった。
 その一つの帰結が、1838年の涙の道(Trail of Tears)<(注3)>だった。
 (注3)「1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約(Treaty of New Echota)の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、条約は時の<米>国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に<米>軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多く<が>この宿営地での病気で倒れた。・・・<そして、残った>15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が<旅の>途上で亡くなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%81%93
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E7%A7%BB%E4%BD%8F%E6%B3%95 (()内)
 13,000人<(数字の不一致の理由は不明(太田))>のチェロキー族(Cherokees)がアパラチア山脈にあった彼らの郷土を後にしたのだ。
 もう一つは、フロリダのセミノール族(Seminoles)に対する戦争<(注4)>だった。
 (注4)「セミノール戦争(Seminole Wars)、フロリダ戦争としても知られる・・・は、セミノールと総称される様々なインディアンと<米>国とのフロリダにおける三次の戦争(紛争)である。<英軍のフロリダ上陸を含む1812~14年の米英戦争の後、>第一次セミノール戦争は1817年~1818年、・・・<そして、1821年のスペインによるフロリダの米国への売却を経て、>第二次セミノール戦争は1835年~1842年、第三次セミノール戦争は1855年~1858年であった。しばしば単にセミノール戦争(the Seminole War)と呼ばれる第二次セミノール戦争は、<米>独立戦争からベトナム戦争の間で<米>国が関わった戦争では最も長く続いた戦争だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%88%A6%E4%BA%89
 それは、現在のイラクにおける戦争の長さにほぼ近い間継続した。
 この物語<の実態>は、一般的に知られているものよりも更にひどい。
 ジャクソンと彼の友人達は、チェロキー族の不動産の何片かを個人的利益のために獲得し、その土地に、奴隷達によって作業が行われたところの、儲かる木綿大農場群を作る形で植民した。
 この米国の物語を贖うのは、ジョン・ロス(John Ross)の抵抗運動だった。
 彼は、混血たるチェロキー族人だったが、今日我々にとって既視感のある方法で、<アングロサクソンとインディアンという>二つの文化の間を巡航した。
 若い時には、彼はジャクソンの軍隊とともに戦った。
 後に、彼はジャクソンの敵対者となり、ジャクソンによるところの、北カロライナ州とそれを取り巻く諸州にあった彼の郷土を獲得しようとする諸努力を拒絶しようとした。」(F)
 「ロスのチェロキー族としての名前はクースウェスクーウェ(Koosweskoowe)<だが、>・・・(全て英語で書かれた)彼の手紙群の全部ではないが大部分において、彼は、イギリス名のジョン・ロス・・・を用いた。」(B)
 「白人文明に適応しようとの決意の下、チェロキー族は、白人様式の衣服や農業を抱懐した。
 ロスを含む若干は、奴隷制も採用した。
 (この譚には聖人は殆んど登場しない。)
 究極的な適応は1828年に起こった。
 その時、ロスは、米国のそれに範を採ったところの、<自治区の>新しい憲法の下で大酋長(principal chief)に選ばれた。
 <そして、>ロスの政府は、新聞を始め、チェロキー族の白人敵対者達についての諸暴露<記事>を掲載した。
 彼は、女性達を含む、白人の同盟者達と一緒に仕事をした。
 チェロキー族は、裁判さえも提起した。
 米最高裁に、自分達の土地を統治する権利を認めるよう求めたのだ。
 彼らに有利な裁定が下されたが、それは無視された。・・・
 ジャクソンもまた、我々の民主主義的伝統を豊かなものにした。
 彼は若くして孤児になった、このスコッツ・アイリッシュ系移民二人の息子は、人生を殆んどゼロから始めた。
 彼が大統領に選ばれたことは画期的だった。
 こんなつつましい出自の者が米国でこんな高い地位まで昇ったことはなかったからだ。」(F)
(続く)