太田述正コラム#7704(2015.6.3)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その2)>(2015.9.18公開)
2 キリスト教の原罪思想のおぞましさ
(1)アウグスティヌス
「ボイスは、欧米におけるキリスト教の主要教義(tenet)は、多くの人が信じているような、ユダヤ/キリスト教的道徳律(moral code)ではないことを強調する。
すなわち、それは、「救済(Salvation)は、「善(good)」や「立派(worthy)」によってはなされない」、なのである、と。
最初から、<欧米の>キリスト教は、「壊れた自身(broken self)に対する深い個人的強調、及び、それに関連したところの、外部の神格(divinity)が救済を提供することへの依存、に立脚していた」、とも。」(A)
「聖アウグスティヌス(St Augustine)<(コラム#471、1020、1169、1761、3618、3663、3908、5061、5100、5298、6024、6171、6302、6727、7149、7257、7448、7534、7536、7538)>は、聖書の不幸なる誤訳・・ギリシャ語能力が十分でなかったアウグスティヌスは、「全ての人間達(men)はアダムにおいて罪を犯した」、と記述されているところの、ウルガタ聖書(Vulgate)<(注1)>として知られる、4世紀のラテン語聖書において用いられたパウロによる誤訳を採用した。・・に従った、彼の修辞の中で、原罪(original sin)、及び、人間(man)の堕落(Fall)、の教え等を開始した。
(注1)「405 年に完訳したラテン語訳聖書でカトリック教会の公認聖書」
http://ejje.weblio.jp/content/Vulgate
欧米のキリスト教精神(psyche)において、聖書の中にさえなかった観念(notion)が、実に、極めて説得力を有するに至ったことを考えると驚かざるをえない。
この本は、どのように、原罪が、欧米のキリスト教の中の中心的教義になったのかを追跡し、その道程を年代順に描いている。」(C)
「紛れようのない形で人類は生来悪であると述べている箇所、は聖書の中には全く存在しない。
原罪は、聖アウグスティヌスが彼の信仰(faith)の核心における諸矛盾と折り合いを付ける試みの結果として、キリスト教思想に入った。
彼は、危険に満ちた時代に生きた。
ローマ帝国は終焉を迎えつつあり、ヴァンダル族(Vandals)が彼の<北アフリカの>郷里を攻囲していた。
愛の(loving)神によって創造された世界の中における、苦しみや殺人的暴力の諸行為<の存在>は、神が彼の被造物達に与えた自由意志を引用することで説明できるかもしれなかった・・すなわち、若干の人々は悪い諸事柄を選択する、と・・が、アウグスティヌスにとっては、悪の問題は、単に、悪い意思(willing)に係る事項ではなかったのだ。
自分自身を顧みつつ、彼は、生来的に罪への性向を持った被造物<たる人間>にあいまみえたのだ(encountered)。
彼は純粋であろうと欲したけれど、色欲を覚えざるを得なかった。
すなわち、彼は善くあろうと欲したけれど、悪くふるまう誘惑に抗することができなかった。
自分の周辺を眺めやり、彼は、これが人間の境遇(condition)である、と見た。
赤子達や小さい子供達でさえ、自己中心的で詐欺的だった。
この罪への性向は、悪魔(Satan)の力(power)でもって説明できるかもしれない。
若干の初期のキリスト教徒達は、この道を辿った。
或いは、それは、基本的に善い性格に対する悪い諸影響の衝撃(impact)でもって説明できるかもしれない。
アウグスティヌスの時代においては、ペラギウス(Pelagius)<(コラム#461、497、1519、4408、4452、5236、5241、7066、7257)>及びその追従者達がこの見解だった<(後出)>。
しかし、アウグスティヌスは、この二つの諸説明をどちらも拒絶した。
悪魔に人間(humanity)を超える力を与えることは、神の全能性と慈悲と両立不可能である、と彼は信じたのだ。
また、ペラギウス派は、人間個人個人の心中の悪辣さ(wickedness)を説明することに失敗している、と彼は主張した。
神が善であるとすれば、どうして、その姿に似せて創られた被造物たる人間が悪なのだろうか、と。
アウグスティヌスの答えは、最初の人間が罪を犯すことを選び、この罪が彼の全子孫達によって承継された、というものだった。
それは、性的行為中に精液を通じて伝達される、と彼は考えた。・・・
自分の人生の終わりの時点までに、アウグスティヌスは、人間達は余りにも腐敗しているので、彼らは救済される術を選ぶことさえできない、という結論に至っていた。
彼らがキリストのメッセージを受容する能力は、完全に神の情け(mercy)いかんにかかっていたのだ。
アウグスティヌスによる、キリスト教信仰を、哲学的に、人間の悪についての彼の諸観察と一貫性があって両立するものにしようとする試みは、未洗礼の赤子達やキリストを知らない人々は地獄に堕ちることが決まっている、との、受け容れ難い(unpalatable)帰結をもたらした。
それでも、カトリック教会(Church)の公式教義として受容されたのは、ペラギウスの見解ではなく、彼の見解だった。
カトリック教会の当局者達を説得したのは、単に、アウグスティヌスの諸主張の論理だけだったのではなく、原罪を信じることが、同教会を救済への導き手(conduit)という強力な立場に置いたからだ。」(E)
(続く)
キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その2)
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