太田述正コラム#7706(2015.6.4)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その3)>(2015.9.19公開)
 「『告白』<(注2)すること>は、聖人的闘争における標準的課題(fare)だった。
 (注2)「397年から翌年に至るまでに書かれた・・・アウグスティヌスの自伝。・・・本書の中で、<彼は、>自分がこれまで・・・罪深く、道徳にはずれた人生を送ってきたことを・・・悔い<、>・・・またその後にマニ教を信仰していたことや占星術を信じていたこと<も>後悔<し>ている。・・・<そして、自分が犯した>性的な罪についてもひどく悲しんでみせ・・・る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%8A%E7%99%BD_(%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9)
 アウグスティヌスによる<その>叙述(account)で特徴的なのは、彼の艱難について、悪魔(Devil)の諸誘惑ではなく、自分自身を非難したことだ。・・・
 ・・・<彼は、>エデンの園<において、>人間の本性は恒久的に腐敗してしまった<、というのだ。>
 アウグスティヌスは、慣習、神学、及び伝統、から夥しい引用を行い、自分の考え方(case)を支えようとした。
 彼は、原罪は聖書の中では十分に詳説されていないことを受け入れつつも、原罪を受け入れない限り、善いキリスト教徒達でさえ、聖なる生を通じて救済を追求する誘惑にかられ、結果的に地獄に堕ちてしまうだろう、と断固として主張した。
 救われることができる前に、人は、自分達自身で改革することなど全くできないこと、神の慈悲(mercy)・・「一つの希望、一つの信頼(trust)、一つの固い約束–あなたの慈悲」・・にのみ依存すること、を認めなければならない、と主張した。
 アウグスティヌスの叙述の明白な難点(difficulty)は、どのように罪の伝達(transmission)が起こったかだ。
 これは、その後何世紀にもわたって混乱した諸議論の主題であり続けたが、実のところ、解決されることはなかったところ、アウグスティヌスは、彼の解答を単純なものに止めた。
 すなわち、精液が犯人である、と。
 原罪、有罪性(guilt)、及び、それに伴う神の正義の審判(just judgement)は、全ての人間に性交を通じて肉体的に伝達される、と。
 女性から生まれた者達のうちで、精霊が「無原罪の種を[マリアの]犯されていない(unviolated)子宮に吹き込んだ(infused)」ことによって、無原罪生誕(immaculate birth)<(注3)>したところの、イエスのみが、唯一、聖なる存在なのだ、と。・・・
 (注3)「聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと<咎>を存在の<初>めから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義」であるところの、無原罪の御宿り(=無原罪懐胎=immaculate conception)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8E%9F%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AE%BF%E3%82%8A
を、イエスの側から形容したもの。
 アウグスティヌスは、原罪が彼の時代に非常に適合的であることを知っていた。
 多くの異教徒達(pagans)がローマ帝国内に残っており、彼らの中の最も道徳的な者達ですら地獄行きが運命付けられているのはどうしてかを説明した諸教えは、彼らをして、用心のためにカトリック教会の洗礼を受けることを促した。
 しかも、カトリシズムは、キリスト教会に係る(ecclesiastical)独占を、ラテン語を話す西<ローマ帝国>においてさえ享受していなかった。
 競争相手たる諸教会の一つがドナトゥス派(Donatists)<(コラム#6152)>であり、この派は、とりわけ北アフリカで強く、この世及びその罪深い諸実相(sinful ways)とのいかなる妥協をも排することで、その純粋性を維持しようとしていた。
 これは、教会は同僚たる罪人達(sinners)のコミュニティであるとのアウグスティヌスの主張が、公然たる議論(debate)の諸火の中で検証されるであろうことを保証した。
 そして、この論議(argument)にアウグスティヌスがうんざりした時、原罪は、この種の反体制派を強制的に抑圧することを正当化する根拠を提供した。
 なぜなら、人々は、善を選ぶことができるような合理的な諸存在ではないが故に、「矯正的処罰の能動的なプロセス」が、キリスト教徒達に対しても、異教徒達に対するのと同様に、躊躇なく、用いられなければならないからだ。
 アウグスティヌスは、この法<(プロセス)>が彼の同僚たる信者達に<も>押し付けられなければならないと信じたのだ。
 「<そして、彼は、誤っている>諸法によって創り出された諸障害(barriers)であるところの、人間達(Men)の、害を行う厚かましい能力、放縦(self-indulgence)への衝動の最大限の荒れ狂い、を除去せよ! 」<と叫んだのだ。>」
(続く)