太田述正コラム#7712(2015.6.7)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その6)>(2015.9.22公開)
イ イギリス
「トマス・ホッブス(Thomas Hobbes)は自然の状態では悪辣で暴虐的であると見た。
ディヴィッド・ヒューム(David Hume)は、理性は常に気儘勝手さ(willfulness)と情熱(passion)の奴隷である、と主張した。
アダム・スミスにおいては、経済学は、剥き出しの(elemental)利己性という仮定の下にあった(posited on)。」(A)
「アダム・スミスは、それを寿ぐためではなく、害を緩和する形態として、市場の見えない手に訴えた。」(H)
「ディヴィッド・ヒュームとアダム・スミスは、人間は生来的に自己中心的であると信じた。
但し、スミスは、利己性は市場経済の中で良い用途に供せられ得る、と思料した。
『モーゼと一神教(Moses and Monotheism)』の中で、フロイト(Freud)<(コラム#471、496、1078、1122、2870、2974、3318、3517、3820、4887、5236、5249、5256、6030、6070、6102、6153、6172、6249、6320、7084、7142、7262、7490、7564)>は、受け継がれた(inherited)神経症(neurosis)が我々に神を探(seek)させるのは一体どうしてなのか、を説明するために、男(man)の堕落(fall)の物語を形を変えて語った(retold)<(注16)>。
(注16)「<フロイトは世俗的なユダヤ人だったが、>カトリック教会に親近感をもってい<た。>・・・エジプト第18王朝の<アメンホテプ>4世が名を変えて<イクナトン(コラム#3722、6477)>となったときに<「生み出した」アテン>教<は、>・・・人類史上で初の純粋な一神教<だが、>・・・<この本の中で、>フロイト・・・<は、このアテン>一神教が・・・エジプト人・・モーセによって“持ち出された”<結果、>・・・ユダヤ教<が>作<られ>、<更に、>ユダヤ人<が>作<られ>た<、という仮説を提示した。>・・・<これに加えて、この>モーセが殺された<と見るべきであって、その結果>、ユダヤの民族の系譜は「父殺し」の原罪をもたざるをえなくなり、しかしながらそのような外的傷害があったからこそ、ユダヤ教が保持できた、また、その最初の外傷の記憶がつねにこの民族を悩ませつづけた<、という仮説も提示した。>」
http://1000ya.isis.ne.jp/0895.html
私は、フロイトの精神分析学は偽科学だと考えていることもあり、上掲引用の後の方の仮説はナンセンスだと思うが、前の方の仮説には説得力を感じる。
⇒ユダヤ系オーストリア人たるフロイトは、後出の欧州の中で取り上げるべきかもしれませんが、ヒュームとスミスもスコットランド人なので、本来欧州に属するも、どちらも、イギリスの祖述者であった、という意味ではイギリスに属するところ、この二人と並列でフロイトに言及されていること、かつ、(いささか苦しいけれど、)フロイトが1938年にイギリスに亡命し、『モーゼと一神教』等を執筆した後、翌1939年に亡くなっていること、から、ここで取り上げました。(太田)
チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)<(コラム#431、471、496、1488、1828、3068、3071、3450、3558、4211、3801、6993)>にとっては、自利は進化の発動機であり、リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)<(コラム#2629、3616、3718、3721、5284、5561、6483、7238、7479)>は、我々を、我々の利己的遺伝子群の生存するための機械群、として描写した。」(E)
「原罪・・・は、今や、発達心理学者達の「利己的遺伝子」へと変身している。
リチャード・ドーキンス、スティーヴン・ピンカー(Steven Pinker)<(コラム#1117、5031、5039、5041、5055、5069、5091、5104、5561、5806、5954、5978、6907、7479、7550)>、その他の人々は、要するに、承継された(inherited)堕落(depravity)の観念を再利用(repurpose)しているのだ。」(A)
「<実際、>ドーキンスの利己的遺伝子とそれを開化(civilize)させるミーム群(memes)<(注16)>は、彼の研究に由来するものではなく、我々がそれから解放される必要性があるところの、人間としての諸欠陥についての諸仮定(presupposition)に由来している。」(H)
(注16)「(模倣のように)非遺伝的な手段によってある人から別の人へ渡される文化的単位(アイデア、価値または行動パターン)」
http://ejje.weblio.jp/content/meme
⇒自然宗教志向で、その中から、性善説に立ち、原罪とは無縁のペラギウス派を生み出し、カトリシズムも、自然宗教的、ペラギウス派的に水で薄めて「信仰」してきた、と私が見ているところのイギリス人でさえ、それなりに、原罪教義の影響を潜在意識下で受けている、ということになりそうであり、ボイスのものの見方は、極めて示唆的かつ刺激的です。(太田)
ウ 米国
「ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)<(コラム#503、518、1028、1294、1467、1472、2984、3302、3375、3715、4139、4591、5111、5464、6263、6634)>は、男達(men)は「権力愛と金銭愛」によって支配されている、と信じていた。
<また、>我々の堕落した本性を認識しつつ、米国憲法の起草者達は、我々の生来の罪深さを「合理的に管理(manage)」する政府を図示した。」(A)
「米国憲法の創健者達は、自分達の任務が、欠陥ある市民達、及び、欠陥ある政府、の双方の力を制限することである、と見ていた。」(H)
「米国の建国の父達が、例えば、人間の本性は否応なしに(inexorably)欠陥がある、との気を滅入らせるような実際的な見解に立脚して、彼らの、民主主義、そして権力分立、を推進したこと、を想起することは意義がある。
対照的に、フランス革命、及び、それ以降の、専制的にして血に飢えた体制、の指導者達は、人間性に係る、そして、人間社会の完全性が可能であるとの、ご高説を抱懐していた。」(D)
「原罪は、政治に対する両義的な態度もまた奨励する。
人々は、人間の本性の最悪の諸側面を統制下に置き続けるために統治されなければならないのだけれど、統治者達は被統治者達と同様に腐敗しており、彼らが悪をなす能力は、彼らの権力によって増大する<ことになるからだ>。
ボイスは、米国の建国の父達は、人間の本性の腐敗を深刻に受け止めていたが故に、人々も、政府のいかなる機関も、無拘束な(untrammelled)力を持たないようにした、と主張する。」(B)
「<そんな>ボイスが、現代の<米国の>福音主義を見て、<この、人々の>気持ちを良くさせる(feel-good)宗教が、現実には、原罪の教義を「沈黙させた」、と結論付けのには驚かされるかもしれない。
ビリー・グラハム(Billy Graham)<(コラム#2388、6361)>のような、人気ある説教者達は、悪を、人間の心ではなく、悪魔(Satan)、或いは、今風に言えば急進イスラム、のせいにする(ascribe to)。
とりわけ、ペンテコステ派(Pentecostals)<(注17)(コラム#1260、1585、1897、3709、3741、4747、4813、6083)>は、救われたとの感覚の恍惚的経験を自分達の信仰の根本とみなしている。
(注17)「近代ペンテコステ運動は、1901年にカンザス州トピカのベテル聖書学院で行われた年末年始の祈祷会で、指導者であるチャールズ・F・バーハムをはじめ神学生のほとんどがいわゆる「聖霊のバプテスマ<(洗礼)>」を体験し、異言で神をほめたたえたことが契機となった。・・・この異言をペンテコステの出来事において使徒らに発現した聖霊の賜物(=カリスマ)と同じものであるとする主張から、自らをペンテコステ派、その宣教運動をペンテコステ運動と呼ぶようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E6%B4%BE
「ペンテコステ(ラテン語: Pentecostes)は、聖霊降臨と呼ばれる新約聖書にあるエピソードの1つ。イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事のこと、およびその出来事を記念するキリスト教の祝祭日。教派により訳語は異なり、聖霊降臨祭、五旬節、五旬祭ともいう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%86
聖霊のバプテスマについては、新約聖書に記述がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E
ちなみに、「キリスト教の教派のうち、正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、および一部のプロテスタント(ルター派教会など)で・・・堅信式<ないし>堅信礼<が>」・・・行われる<ところ、>・・・堅信<とは、>「信者が洗礼を受けた後、一定の儀礼において聖霊の力、ないし聖霊の恵みを受けるとされる概念」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E4%BF%A1
「異言(いげん)は、・・・英: glossolalia・・・あるいは・・・英: xenoglossia/xenoglossy・・・の訳語で、いずれも、学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象を指す。・・・新約聖書では4箇所に異言の明確な言及が登場する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E8%A8%80
<このような>楽天的な(Upbeat)諸宗派は、 怒れる神の手中にある罪人達の運命などにかかずらわることがないのだ。」(A)
「米国の独立革命の英雄にして理神論者(Deist)たるイーサン・アレン(Ethan Allen)<(コラム#7072)>は、原罪を信じることが困難だった。
彼は、キリスト教の聖職者であったところの、従兄弟に対して、自分は原罪を信じていない、という手紙を書いた。
彼の聖職者たる従兄弟は、返事を寄越し、原罪がなければキリスト教の必要性がない、と述べた。
イーサン・アレンは、同意する、キリスト教の必要性はない、と返信した。」(F)
(続く)
キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その6)
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