太田述正コラム#7834(2015.8.7)
<21世紀構想懇談会報告書(その1)>(2015.11.22公開)
1 始めに
表記についてですが、「座長・西室泰三日本郵政社長」
http://mainichi.jp/select/news/20150807k0000m010098000c.html
(8月6日アクセス)
でありながら、「議事の進行、整理を主導したのは北岡伸一座長代理である」
http://mainichi.jp/shimen/news/20150807ddm002010183000c.html
(8月7日アクセス)
というのはおかしいではないか、と最初に記しておきます。
西室氏は、お飾りにしかなれないのなら、就任の打診があっても固辞すべきところ、勲章欲には勝てなかった、ということなのでしょうね。
さて、北岡君は、私と大学学部同期であり、かねてからの自民党の御用学者で、東大教授から外務省に出向して国連次席大使を務めたところの、外務省のポチでもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B2%A1%E4%BC%B8%E4%B8%80
ところ、彼が座長代理に指名された段階で、この報告書が吉田ドクトリン報告書になることは決まっていた、というべきでしょう。
それなら、せめて、お飾りの座長は、純然たる民間人をもって充てるべきところを、元は東芝の長であったとはいえ、現在、政府企業の長である西室氏を充てたのでは、報告書の権威に甚だ傷が付くというものです。
この点に限りませんが、安倍さんの頭の構造を疑ってしまいます。
以下、報告書
http://mainichi.jp/feature/news/20150806mog00m010021000c.html
からの引用と、私のコメントです。
報告書の英訳
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/pdf/report_en.pdf
を利用する場合もあります。
なお、典拠の付いていない部分は、原則、過去コラムに拠っているつもりです。
「典拠省略」表記も多発したことも、お断りしておきます。
2 報告書
「・・・日本では、政党の優位は制度的な裏付けを持たず、軍部は強い独立性を持っていた。・・・
⇒この報告書は呆れるほど長いのですが、ここは、重要なセンテンスであるにもかかわらず、意味不明なほど簡潔です。
現行憲法同様、帝国憲法にも規範性がなく、「政党の優位」、すなわち憲政の常道ないし議院内閣制が、その禁止を意図した明治憲法下で確立するに至っていたところ、現行憲法下で明文で禁止されている軍隊を自衛隊という名称で保持しつつも、その自衛隊を自衛隊法等で規律しているのと違って、明治憲法下での「政党の優位」は、(法律なくして、)憲法の変遷の形で慣習法的に確立していたにとどまる、ということはあります。
しかし、だからといって、明治憲法下、「政党の優位は制度的な裏付けを持た」なかった、とは言えません。
現に、1924年から1932年の挙国一致内閣化まで「政党の優位」は続き(典拠省略)、その後も、観念上は「廃止」されることなく現行憲法の時代へと継承されています。
「政党の優位」を脅かしていたということになっている、「悪名高い」軍部大臣現役武官制についても、陸軍省官制及び海軍省官制という勅令・・政令並びで、御名御璽に首相等の副署を加えて交付される・・を改正することで、「政党の優位」以前も以後も内閣の意思で廃止が可能であり、現に、(「政党の優位」が確立する前でしたが、)1913年に廃止されています。(挙国一致内閣化してからの1936年に復活。)
また、予備役を含めた軍部大臣武官制そのものもまた、同じ勅令の改正で廃止することが可能でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%A4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
いわゆる、統帥権の独立も、太平洋戦争中、東條首相の時に、首相(兼陸軍大臣)が参謀本部長を兼務し、海軍大臣が軍令部総長を兼務することで、事実上廃止したことがある(典拠省略)ので、(これもまた、挙国一致内閣化してからのことでしたが、)「政党の優位」の下でも可能であったことになります。(太田)
日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こした・・・
⇒「中国ナショナリズムの満州権益への挑戦」が「ソ連の軍事強国としての復活を懸念」を促進させたんであって、二つを並列させちゃダメでしょう。
また、「ソ連の軍事強国としての復活を懸念」しての行動を「膨張」と形容するのは下品では?(太田)
そのころ、既にイタリアではムソリーニの独裁が始まっており、ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。ドイツではナチスが議席を伸ばした。もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。
⇒有事に移行しつつあった国際情勢の下で、依然、二大政党間の醜い政争が続いていたことから、政治家中心のアングロサクソン流政治体制に愛想を尽かした日本国民が、軍部を含む官僚機構により軸足を置いた日本型政治体制の確立を求めた、ということです。(太田)
国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、次第に受け入れられるようになった。
⇒「全体主義的」というのも下品な表現であり、日本型政治経済体制の構築と有事への移行を念頭に置いた総動員体制の構築とが、オーバーラップしつつ、推進された、ということでしょう。(太田)
こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略<注1>を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。
⇒侵略の定義いかんにもよりますが、この中で侵略と言えそうなのは満州事変のみです。(後で再度取り上げる。)
しかも、対ソ抑止の観点からは、満州事変を起こす以外の方策は、日本にはありませんでした。(太田)
特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。
⇒蒋介石政権の自業自得でしょう。(太田)
また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。
⇒補給・武器の不足は、日本の経済・財政力がその程度だったということですし、捕虜にとられることを忌避せざるを得なかったのは、徴兵兵士が平和ボケし縄文化していたからです。(太田)
広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷(しょうい)弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨(せいさん)な戦場となった。
⇒その多くは、米軍の国際法違反の一般住民攻撃のためです。(太田)
植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。
⇒有事化に伴ってのことですし、朝鮮半島は内地に準じる扱いだったのでなおさら当然のことです。
なお、ほぼ同じ条件下の、例えば、英領インドに比べれば、朝鮮半島の状況は、地獄に対するに天国、ほどの差がありました。(太田)
1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。
⇒以前指摘したように、こういう書き方をすると、天皇責任論に踏み込んでいることになりますが、そんな自覚は執筆者達にはなさそうです。(太田)
なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人はもちろんいたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。
⇒珍しく、このくだりには、全面的に同意できます。(太田)
<注1>複数の委員より、「侵略」という言葉を使用することに異議がある旨表明があった。理由は、(1)国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、(2)歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、(3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである。・・・
⇒後で取り上げます。(太田)
日本は、戦後、不戦に関する国連憲章の規範をもっとも忠実に守った国であったと言える。・・・
⇒思わず吹き出してしまいます。
米国が「不戦に関する国連憲章の規範をもっとも」頻繁に破ることに全面的に依存してその安全を確保してきたのが戦後の日本だからです。(太田)
第一次世界大戦後に生まれた民族自決の動きが、第二次大戦後、多くのアジア・アフリカ諸国において独立、脱植民地化という形で結実したことである。日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。この流れの中、1950年代から60年代にかけて、アジア・アフリカの多くの国が独立を達成し・・・
⇒どうして、日本がアジア・アフリカ会議に招待されたか、に改めて思いを馳せるべきでしょう。(太田)
先の大戦に至る過程において、国際連盟を脱退し、不戦条約の抜け穴を利用しようとして武力行使に踏み切った日本・・・
⇒国際連盟を脱退したのは満州事変を起こした後であり、爾後、日本は侵略など基本的にやっていないのですから、何を言っているのか、私には理解できません。(太田)
20世紀から我々がくむべき教訓とは何だろうか。第一に、国際紛争は力によらず、平和的方法によって解決するという原則の確立である。力による現状変更が許されてはならない。
⇒戦争こそ違法化されても、国際的な組織的計画的武力犯罪は横行し続けており、国際的な武力警察機能としての先進各国の軍隊の必要性には、何の変わりもありません。(太田)
第二に、民主化の推進である。全体主義の国々において、軍部や特定の勢力が国民の人権をじゅうりんして暴走した結果戦争に突入した経緯を忘れてはならない。
⇒まさかその中に日本を入れていないでしょうね。
日本と米英は、それぞれが民主主義的国家であったにもかかわらず、戦争に突入したのです。(太田)
第三に、自由貿易体制である。大恐慌からブロック経済が構築され、国際貿易体制が崩壊したことが第二次世界大戦の要因となったことを踏まえ、20世紀後半の世界経済は、自由貿易体制の下で発展してきた。
⇒戦間期に、米英を中心として、欧米列強が自由貿易体制から勝手に抜け、世界中に大迷惑をかけたことを、彼らが痛切に反省し、悔悛した、というだけのことです。(太田)
第四に、民族自決である。大国が力によって他国を支配していた20世紀前半の植民地支配の歴史は終わり、全ての国が平等の権利と誇りをもって国際秩序に参加する世界に生まれ変わった。
⇒結果論であれ、太平洋戦争中の日本の奮闘の賜物です。(太田)
第五に、これらの誕生間もない国々に対して支援を行い、経済発展を進めることである。貧困は紛争の原因となりやすいからである。
⇒というより、経済援助は、日本の場合は賠償的要素もあったけれど、基本的には、旧宗主国が旧植民地や保護国や勢力圏内の国に対する影響力を保持し続けるための手段である、と言うべきでしょう。(典拠省略)(太田)
このような平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、いずれも20世紀前半の悲劇に学んだものであった。
この世界の歩みは、第二次世界大戦によって焦土と化した日本が、20世紀後半に国際社会の主要メンバーとして発展してきた歩みに重なる。日本は、20世紀の前半はまだ貧しい農業中心の国であり、産業と貿易によって富を築くという考えよりも、領土的膨張によって発展すべきだとする考えが、1930年代には支配的となってしまった。
⇒一体どこの国の話をしているのでしょう?(太田)
戦前の日本においては、政治システムにも問題があった。明治以来、アジアで初の民主主義国家として発展してきた日本であったが、明治憲法は多元的で統合困難な制度であって、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、関東軍が暴発した時、政府はこれをコントロールする手段を持っていなかった。
⇒コントロールする手段は、人事、財政、法令、といくらでもあり、その意思さえあればコントロールすることは、完全に可能でした。
なお、太平洋戦争中に統帥権を首相が掌握したことは前述しました。(太田)
独善的な軍は、戦局が厳しくなるにつれ、国民に対する言論統制を強め、民主主義は機能不全に陥った。そして軍事力によって生存圏を確保しようとする日本に対し、国際的な制裁のシステムは弱く、国際社会は日本を止められなかった。
⇒軍は政府の一環として、有事にいかなる自由民主主義的国家であれ導入する言論統制を行っただけですし、民主主義は、英国に比べても、より強固に終戦まで機能し続けました。(太田)
しかし、20世紀後半、日本は、先の大戦への痛切な反省に基づき、20紀前半、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった。平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、戦後の日本を特徴づけるものであり、それは戦後世界が戦前の悲劇から学んだものをもっともよく体現していると言ってよいのではないだろうか。・・・
⇒とんでもない。
戦後は軍部がなくなり、米国の属国になったという点を除き、戦前から戦中にかけて確立したところの、日本型政治経済体制が継続した、という意味で、日本は全く同じ国であり続けて現在に至っているのです。
(細かく論じるときりがなくなるので、ここは、これくらいで・・。)(太田)
(続く)
21世紀構想懇談会報告書(その1)
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