太田述正コラム#7876(2015.8.28)
<ヤーコブ・フッガー(その8)>(2015.12.13公開)
・法王庁衰亡へ
「フッガーの法王庁との関係は、ドイツからローマへ(3%の口銭の見返りの下に)賽銭諸集金(offertory collections)を送金することができる、広範囲にわたる支店ネットワークに立脚していた。
しかし、彼の最も仰天されるべき、かつ予期されなかったところの、歴史的業績は、ステインメッツ氏に言わせれば、巧まずして、宗教改革を開始させた導火線に火を付けたことだ。
フッガーはもう一人のハプスブルク家の顧客と手を組んだ。<(注21)>
(注21)アルブレヒト(後出)は、後にドイツ(第二)帝国の皇帝群を生み出すこととなるところの、当時においては、ハプスブルク家とは全く交錯していない、ホーエンツォレルン家の人間であり、
https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Hohenzollern
書評子は勘違いをしている。
彼のためにフッガーはマインツ(Mainz)大司教<(注22)>職を購入してやり、この二人は、免罪符<(注23)(コラム#3906、4039、6310、7052、7058、7708、7710、7724)>群(indulgences)・・購入料金を支払うと、天国への近道が提供され、諸罪が赦免される・・を売り始め、その上がりを法王レオ10世と折半した。
(注22)「780/82年から1802年まで神聖ローマ帝国にあった、大きな力を持った司教領主である。カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者(primas Germaniae)であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった。マインツ大司教座は司教座の中でも、ローマ大司教座を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていた・・・マインツ大司教はまた選帝侯の1人であり、ドイツ大書記官長であり、実質的には1251年から、そして1263年から1803年の間は一貫して、皇帝選挙の投票場管理官でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E6%95%99
(注23)贖宥状(しょくゆうじょう)。「元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」である。
贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。
ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。後にボニファティウス9世当時、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6
法王は、この現金をサン・ピエトロ大聖堂(St Peter’s Basilica)<(注24)>を建設するために用いた。
(注24)「初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認し、自らも帰依したコンスタンティヌス1世の指示で・・・4世紀<に>・・・聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として・・・建設されたバシリカ式教会堂である。・・・現在の聖堂は2代目にあたり、・・・1506年<に着工され>・・・1626年に完成したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82
1517年にマルティン・ルター(Martin Luther)<(コラム#198、3232、4812、4814、6171、6304、6338、7025、7238、7593、7865)>はこの仕組みに甚だしく怒り、法王庁を非難する「95ケ条」を書き、プロテスタント宗教改革を引き起こした。・・・」(B)
「1514年に、ドイツでは皇帝に次いで強力な職位であるところの、マインツ大司教職が空席になった。
この種の諸ポストに就くには諸賄賂(payoffs)が必要であり、このような重要な昇任のための金融のカネを持っていた男は一人しかいなかった。
ドイツの多くを統治していた家族出のアルブレヒト・ホーエンツォレルン(Albrecht of Hohenzollern)<(注25)>はこの仕事を欲し、当時、世界で最も金持ちの男であったヤーコブ・フッガーに、このカネを貸し付けるよう求めた。
(注25)Albert of Brandenburg=Albert of Mainz(1490~1545年)。マグデブルク(Magdeburg)大司教:1513~45年。マインツ大司教:1514~45年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Albert_of_Mainz
法王レオ10世は、それまで、自分の就任式の際に「法王庁の財宝を浪費し」、「売春婦達が枢機卿達の面倒を見た諸パーティを主催し」てきたのだが、その仕事の対価として34,000フローリン・・現在価値で概ね480万ドル相当・・の支払を求め、フッガーはこのカネをこの法王の個人的銀行口座に直接振り込んだ。
この貸付金を返済するためにアルブレヒトの家来達は免罪符群を売却した諸あがりを用いることを決めた。
「信仰心厚き者からカネを巻き上げることができるということを誰よりもよく分かっており」、かつて、「キリストのお伽噺から何とまあ大層な利益があがってきたことよ」、と喝破したところの、法王のレオは、このアイディアに賛同した。
しかし、信仰心厚き者からカネを巻き上げるためには、上手な詐欺行為の通例だが、この法王は、ちょうど具合のよいことに、カネのかかる改良工事を必要としていたところの、サン・ピエトロ・バシリカ(Basilica)<(注26)>という形でカバーストーリーを提供した。
(注26)サン・ピエトロ大聖堂の別称。「カトリック教会では伝統的に、ローマ教皇の発行する公式文書(教皇小書簡、小勅書などと呼ばれる)によって種々の特権を付与された教会堂をバシリカと呼称している。・・・バシリカは世界中に数多く存在しており、2006年時点で1476のバシリカがある。大半はヨーロッパにあるが、南北アメリカにも200弱、アジアやオーストラリアにも若干のバシリカが存在している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%AB
この法王は、このバシリカの刷新のための免罪符群の売却を声明したのだ。
その諸売却努力は、「諸聖書、諸十字架、そして、…悪魔がてっぺんに鎮座する絵入りの大きな木製の箱を携え」、礼拝者達に、この免罪符群が「全ての罪を赦免する」と伝えたところの、「免罪符売り」によって率いられた。
この法王は、「累進的料金表」まで提供した。
王族の人々は25フローリン、日雇い労働者達はわずかに1フローリン、といった具合の・・。
収益は折半され、半分が法王のところに行き、残りの半分はフッガーのところに行った。
儲かるには儲かったが、この免罪符の売却は大地を揺るがすような諸帰結をもたらすことになる。
というのも、それは、マルティン・ルターという名の改革者を鼓吹したからだ。
彼は、ぞっとして、「免罪符群に反対する95ヶ条の諸論題、すなわち、その有名な95ヶ条の諸論題(Ninety-Five Theses)」を書き、プロテスタント宗教改革に導くこととなるところの、運動を開始したのだ。・・・」(E)
⇒我々は既に、ルターがいかに反ユダヤ人的で(コラム#7593)、かつ、いかに暴虐的な人物であったか(コラム#7865)、を知っています。
皆さんは、本シリーズでこれまで登場したところの、指導者たる人物群が、ことごとく、金儲けないし権力を追求することを旨とする利己主義者達ばかりであることに、さぞかしげっそりされたことと思います。
日本とイギリス、そして(言葉の本来の意味での)若干の仏教国においてしか、人間主義的な指導者群は生まれえないのである、ということを、我々は、改めて思い起こさせられます。
これらの例外的な国、地域以外の、通常の国、地域の一つである、(私が名付けたところの、)プロト欧州文明地域が、宗教改革を契機に、人間の精神を支配する宗教であるプロテスタンティズム、そして、後にその変形物たる民主主義独裁の諸イデオロギーを生み出したことで、まさに、欧州のありきたりの利己主義者達が悪魔的なファナティスト達へと変貌を遂げ、欧州文明が誕生することになるわけです。
(なお、近似する先駆者群が、欧州の近傍に、そう遠くない前に存在したことがあります。イスラム創世記におけるイスラム教徒達がそうです。)(太田)
(続く)
ヤーコブ・フッガー(その8)
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