太田述正コラム#8014(2015.11.5)
<小林敏明『廣松渉–近代の超克』を読む(その3)>(2016.2.20公開)
「廣松がマルクスに見出したという人間観は、・・・ホッブスやライプニッツのそれと異なった、徹底的に関係主義的機能主義的である。・・・
「個体」は論議の出発点ではなく、反対に関係的行為ないし行為的連関の所産であり結果なのである。」(80)
⇒マルクス/廣松の人間観が人間主義的なものであったことを再確認しましょう。(太田)
「価値の決定基準は・・・、マルクスの<『資本論』の中の>言葉で言えば、「総労働にに対する生産者たちの社会的関係」にあるのだ。<アダム・スミス言うところの、>ひとりの人間の「労働」行為<など>ではなくて、はじめから関係の網の目に組みこまれた人間たちの「総労働」から逆規定的に個々の労働の「価値」が決められてくるのである。
マルクスはこういう事態を「取り違え Quidproquo」<(注6)>と呼んだが、この「取り違え」のゆえに、あたかも「抽象的人間労働」が「凝結」するように見えてくるのである。これがマルクスのいう商品の「物神的性格」<(注7)>にほかならない・・・。・・・
(注6)ラテン語であるQuid Pro Quo・・これをマルクスが本当にくっつけた形で使ったのかどうかは知らないが・・の意味は、独語でも英語でも同じ
http://dict.tu-chemnitz.de/dings.cgi?service=deen&opterrors=0&optpro=0&query=Quid+Pro+Quo&iservice=
であり、’something for something’ の意味であって、通常、「代わり,代償(物), 報償,見返り」と邦訳される
http://ejje.weblio.jp/content/Quidproquo
ことからして、廣松ないし小林が、或いはまた、邦訳された『資本論』の訳者が、それを「取り違え」と訳した(「取り違え」と受け止めた)とすれば、それはニュアンスの違いというより、誤訳に近いのではなかろうか。
(注7)物神性(Fetischcharakter)。「商品の価値は人間の労働が対象化された労働生産物であるがゆえに付与されるものであるにもかかわらず,商品が本来物自身として有する自然的性質であるという幻想を生み出す。」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E7%A5%9E%E6%80%A7-125191
「この物神崇拝から出発して、貨幣がそれ自身の性質によって他の商品と交換できるかのように考える貨幣の物神崇拝、資本がそれ自身として利子を生むかのように考える資本の物神崇拝が生まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96
・・・廣松は『資本論』の再解釈を通して得られた商品の価値的性格をさらに他の価値的存在一般にまで広げ、・・・その成果が1972年に「廣松哲学」の出発点ともいうべき『世界の共同主観的存在構造』という著作となっ・・・た。
廣松はここで・・・主観・客観の二元論パラダイムを近代の主要メルクマールとしながら、これに対する認識論的オールタナティヴを提起する。・・・
廣松は・・・「反省以前的な意識に現われるがままの世界」を「フェノメノン(後の著作『存在と意味』では「現相」と言い換えられる)と用語化し、これをまず対象面に即して次のように説明する。
フェノメノンは、即自的に、その都度すでに(インマー・ショーン)、単なる、”感性的”所与以上の或るものとして現われる。いま聞こえた音は自動車のクラクションとして、窓の外に見えるのは松の樹として、直観的に現われる。<(引用)>
・・・そこに二重構造がある。いま聞こえた音はたしかに物理的に発せられた音、その意味で感性的に知覚されたものにはちがいないが、普通にはそれを自動車のクラクション「として」聴いている。つまりそこには初めから何らかの「意味づけ」が働いているのである。・・・
さらに廣松はこのフェノメノンの二重構造とは別に、もうひとつ別の二重構造をもちだしてくる。
それはそのフェノメノンを知覚認識する側の二重構造である。
どういうことか。
例えば、牛が或る子供によって「ワンワン」としてあるという場合、牛がワンワンとしてあるのはその子供に対してであって、私にとってではない。とはいえ、もし私自身も何らかの意味で牛をワンワンとして捉えるのでなければ、私は子供が牛を”誤って”犬だと捉えているということを知ることすら出来ないであろう。・・・<(引用)>
・・・そのつどの知覚場面をよくみれば、私という知覚者は一律ののっぺらぼうな認識主観ではなくて、そのつど異なった「誰々として」立ち現われている。つまり、ちょうどフェノメノンの対象面において「として」の二重構造が認められるように、その主体面においても「として」の二重構造が成立するのである。」(90、92~94、96~98)
⇒対象面における二重構造とは、特定の人間(じんかん)的集合体の中で形成されたところの、共有概念のプリズムを通して我々は外界を感知している、ということであり、主体面における二重構造とは、この共有概念のプリズムを身に着けていない他人・・幼児や外国人等・・を、そういう存在と認識するとともに、当該他人とでも人間(じんかん)的関係を我々は取り結ぶことができる、ということです。(太田)
(続く)
小林敏明『廣松渉–近代の超克』を読む(その3)
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