太田述正コラム#8082(2015.12.9)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その13)>(2016.3.25公開)
「地震<等の天災>時<には、代官達は、>泥だらけの姿で・・・救済に奔走したばかりでなく、<天災>後の復興についても職人賃金や物価の便乗値上げに目を光らせる目配りをした・・・。」(266)
⇒代官達もまた、本来戦闘を業務とする武士だったからこそ有事に強かったという見方もできますが、この江戸時代からの良き伝統を現代の官僚達も受け継いでいて欲しいところ、半世紀超に及んでしまったところの、最大の有事たる「戦争を放棄した」吉田ドクトリンの下では、多くを望むことはできないでしょう。(太田)
「<また、>少なくとも管見のかぎり公式記録のなかからは代官自身が悪徳商人と結託していて賄賂を貰うといった事例は見出せなかった。
⇒この良き伝統は、間違いなく現代のキャリア官僚達にも基本的に受け継がれています。(太田)
その一方、下僚特に庶民から採用の手代の無法ぶりは、・・・<以下、>ご紹介<する>とおりであり、<手付制導入(下述)までは、>いかに有能な下僚を抱えるか、人事管理ができるかが代官の評価にもつながったのである。・・・
凶作のために<年貢の>減免をしてほしいという訴願<を行うような場合、>・・・<手代等>への謝礼のみならず、検見に必要な竹・札などの物品も自己負担となるほか、接待も必要であった。・・・
このような役人への謝礼・接待攻勢、いわゆる官官接待は・・・もちろん、村側が見返りを求めてのことはいうまでもないが、じつは接待をする村役人の側にも相応の理由があったのである。・・・
本来村のために賄賂を贈り、村の側に立つべき村役人が賄賂費用として農民たちから<金>を集め、<その一部>だけを遣い、残りを中間搾取しているところがあ<ったのだ。>・・・しかし、・・・<それが>贈収賄事件として・・・立件され摘発されることは希であった。・・・
正規の幕臣ではない手代たちが実質幕領支配を左右していた<ことがこのような状況をもたらしていたことから、>1790(寛政2)年、信濃国中之条<の>代官・・・が立案提起し<たものを>勘定奉行・・・<が採択し、>手代を廃止して、替わって代官下僚として御家人身分の「手付」を創設する政策が実行されていくこととなった。」(249~252、281)
⇒「全くの情実だけで採用され、身分も不安定であった」ところの手代制を、正規雇用の手付制に置き換えた、というわけであり、この点一つとっても、江戸時代の行政は日進月歩であった、と言えそうです。(太田)
「江戸時代・・・後期になると幕府の機構そのものも弱体化し、その補強のために身分にとらわれない人材登用が求められていくようになった。
厳格な身分組織体系が崩壊していく過程で、自ら転任・任地・昇任等々を主張し、辞令一枚でというではなく、個々の同意のうえで人事をおこなわざるを得なくなってきたのである。」(272)
⇒これを幕府の機構の弱体化と捉える必要は必ずしもないのであって、現代の官僚機構においても、こういったことはある程度あった方がいい、と私は思います。
私自身、仙台防衛施設局勤務を命ぜられた時は、まだ息子が保育園であり、当時の家内も仕事に忙殺されていたので、同じ防衛施設局でも、自宅から通勤できるところの、東京か横浜勤務にしてくれるくらいの配慮が人事当局にどうしてできないのか、と天を仰いだものです。(太田)
3 終わりに
この10日間ほど、野暮用で心理的に忙殺されてしまっていたので、たまたま、進行中であったのが「軽い」話題のこのシリーズで助かりました。
これから、大幅に遅れてしまった、オフ会「講演」準備にとりかからなければならないので、引き続き、日本語の本を読むシリーズを続けることで、有料読者向けコラム執筆の負担軽減を図ろうと思っているのですが、この点、ご理解いただければ幸いです。
(完)
西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その13)
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