太田述正コラム#8084(2015.12.10)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その1)>(2016.3.26公開)
1 始めに
表記シリーズをお送りします。
著者の楊海英(1964年~)は、以下のような人物です。
「中華人民共和国内モンゴル自治区・・・出身の文化人類学者。モンゴル名はオーノス・チョクト、日本に帰化した後の日本名は大野旭で、「楊海英」は中国名である。1966年から1976年にかけての文化大革命において、モンゴル人数十万人が中国共産党政府によって粛清された内モンゴル人民革命党粛清事件についての研究で知られる。・・・北京第二外語学院大学日本語学科卒・・・1989年・・・訪日。別府大学の研究生、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学の研究を続けた。中京女子大学助教授を経て、1999年・・・静岡大学助教授。・・・2000年・・・、日本へ帰化。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B5%B7%E8%8B%B1
2 楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む
「「男装の麗人」こと、川島芳子<(注1)>をご存知だろうか。
(注1)1907~48年。「本名は愛新覺羅顯<●(王偏に子)>・・・8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速<(なにわ)>の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長・・・の媒酌で蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげた。・・・彼らの結婚生活は長くは続かず、3年ほどで離婚した。 その後、芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作を行っていたのかなど、その実態は謎に包まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90
川島は、「芳子の他に粛親王の長男の二女・廉<○(金偏に呂)>を養女とし、川島廉子として入籍させた。しかし芳子は入籍させておらず、そのため戦後芳子が漢奸罪で国民党に訴追された時に日本人と認められず、処刑されてしまうことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E6%B5%AA%E9%80%9F
清朝の王女として生まれ、日本で育ち、日本軍の滑動にも参画したことで、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ、「漢奸」(日本への協力者)として中華民国政府に処刑された人物だ。
彼女は漢族(チャイニーズ)ではなく、満州人である。
⇒川島浪速、その「養女」の芳子は、それぞれ出自、性を異にしつつも、あの時代特有の「大陸浪人」としての生涯を送った、と言ってよいでしょう。(太田)
芳子の夫はガンジョールジャブ(甘珠爾札布、1903~71)<(注2)>といい、モンゴル人だ。
(注2)カンジュルジャブ。「モンゴル族出身の満州国軍の軍人・・・。満州事変の際に内蒙古自治軍を組織し、満州国建国後は興安軍の中心的人物となった。・・・最終階級は陸軍中将。・・・1945年8月のソ連参戦時、カンジュルジャブ(中将)は第9軍管区司令官であった。8月12日、第9軍管区は通遼から奉天方面への後退を決定し、8月15日、部隊は博王府に集結した。8月16日未明、カンジュルジャブ司令と副官の2名が騎馬で去っていく姿が日系軍官らに目撃された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96
⇒せいぜい3年しか婚姻関係になかったのですから、「ガンジョールジャブ(甘珠爾札布、1903~71)は芳子の夫であったことがある」と書くべきでした。
一事が万事、いくら専門書ではないとはいえ、楊の筆致は歴史学者というよりは歴史小説家のそれです。(太田)
ガンジョールジャブの弟はジョンジョールジャブ(正珠爾札布、1906~67)<(注3)>で、2人とも日本の陸軍士官学校(陸士)を出て、満州国の青年将校となった。
(注3)「満州国軍の軍人。・・・最終階級は陸軍少将。・・・1945年8月9日、ソ連の参戦に対し、第10軍管区(駐ハイラル)は興安嶺でソ連軍の侵攻を阻止するよう命令を受けた。8月10日、経由地点のシネヘン(錫尼河)に到着すると、ジョンジュルジャブは日系軍官を殺害してソ連軍へ投降することを決意し、計画を部下のモンゴル系軍官たちに伝えた。8月11日午前10時頃、各隊で一斉に叛乱が起こり、日系軍官は次々に殺害された(29名)。ジョンジュルジャブと第10軍管区約2,000名は、8月13日にソ連軍に投降した。その後、ジョンジュルジャブはハバロフスクの収容所へ収監され、1950年8月に撫順戦犯管理所に移された。思想改造を受けた後、1960年11月28日<に>・・・釈放されハイラルの国営営林場で労働者となった。・・・1966年、文化大革命が始まるとジョンジュルジャブは反省室に隔離された。1967年11月中旬・・・ジョンジュルジャブは・・・首を吊って自殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96
⇒日本人に対して「恩」を仇で返さなかった兄は自然死、返した弟は自殺、とは、因果は巡るみたいな話ですね。(太田)
ガンジョールジャブとジョンジョールジャブ兄弟の父親はバボージャブ(巴布札布、1875~1916)<(注4)>で、日露戦争時に日本軍の先導をつとめた。」(ⅰ)
(注4)「川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵したが、中華民国軍との戦いで戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%96
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その1)
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