太田述正コラム#0372(2004.6.6)
<民主主義の起源(その1)>

反民主主義的なアングロサクソンは、面白いことに、世界で最も早く民主主義を提唱した人々を生み出しています。
それが、17世紀のイギリスの(日本で言うところの)ピューリタン革命(イギリスではCivil War)の過程で現れたレベラーズ(Levellers)という政党の党員の人々です。
1846年にリルバーン(John Lilburne。1615??1657年。http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/STUlilburne.htm(6月7日アクセス))、ワイルドマン(John Wildman。1621??1693年。http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/STUwildman.htm(同))、オーバートン(Richard Overton。1625???1664年。http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/STUovertonR.htm(同))、ウォリン(William Walwyn。1600??1581年。http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/STUwalwynW.htm(同))の四名はレベラーズを結成し、男子普通選挙、毎年の総選挙、完全な信教の自由、本と新聞の検閲の廃止、王制と貴族院の廃止、陪審員による裁判、低所得者の非課税、利子率の最高限度設定、を唱えました。
翌1847年、レベラーズはロンドンのパットニー(Putney)の教会で、上記主張を織り込んだ一種の憲法素案を議論の俎上に乗せた集会を開催します。この集会には反チャールス1世側(すなわち議会側)の軍隊の各連隊から代表が参加しました(注1)。パットニー集会で議論の焦点となったのは普通選挙の是非でした。

(注1)イギリス議会の起源はゲルマン民族のどの部族にも見られた部民全体会議である。部民全体会議参加有資格者は戦士たる成人男子だった。王も将軍も基本的にこの会議において選出された。(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版。原著が執筆されたのは、紀元97??98年)52??53頁、65??76頁)
    してみれば、議会が軍隊を興して議会の意向に従わない国王と戦ったり、その議会軍が代議員を政治集会に派遣したりするのは、(大陸に残ってローマ化して「堕落」したゲルマンと違って)純粋なゲルマン民族の風習を受け継いだアングロサクソン(イギリス人)にとってはごく当たり前のことだったに違いない。

その時に、普通選挙賛成の大論陣を張ったのが下院議員で議会軍の大佐であったレインズボロー(Thomas Rainsborough。1610???1648年。http://www.british-civil-wars.co.uk/biog/rainsborough.htm(6月6日アクセス))です。
(以上、特に断っていない限り、http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/STUputneydebates.htm(6月6日アクセス)による。)
「思うに、イギリスの最も貧しい人々と言えども、最も偉大な人々同様、生きるべき人生があります。ですから、皆さん、一つの政府の下で生きるすべての人々は、自らの同意があって初めてその政府の下に置かれるべきです。私は、イギリスの最も貧しい人々は、声をあげる権利なくして下に置かれた政府には厳密に言えば全く拘束されることはない、と考えるのです。」というのが彼の演説のさわりの部分であり、民主主義という言葉こそ当時はまだありませんでしたが、民主主義なる概念は、まさにこの演説によって生まれたと言ってよいでしょう。
この新しい概念は、イギリスに、そして欧州に多大な影響を与えただけでなく、レインズボローの肉親を通じて新大陸に移植されることになるのです。
レインズボローの妹は、後にマサチュセッツ湾植民地の総督となるピューリタンのウィンスロップ(John Winthrop。1587??1649年。http://dylee.keel.econ.ship.edu/ubf/winthrop.htm(6月7日アクセス))(注2)に嫁しましたし、レインズボローの弟はボストンに移住しました。現在米国にパットニーという名前の町が六つもあることは覚えておいていいでしょう。
(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1231524,00.html(6月5日アクセス)による。)

(注2)ニューイングランドをCity upon a Hill(マタイ伝5:14)にするという理想に燃えて米国に赴いた。米国の礎を築いた一人。

(続く)