太田述正コラム#8374(2016.5.3)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その1)>(2016.9.3公開)
1 始めに
数日前に日本の新聞の電子版の書評欄で目にしたところの、表記の本とほか1冊、を買おうと、昨日、コーヒー豆の焙煎屋に赴いたついでに、その向かいにあるダイシン百貨店
http://www.daishin-jp.com/
の書籍売り場を(初めて)覗いたところ、岩波新書と幻冬舎新書だったのですが、そもそも、両社の新書は一切置いてなかったので、本日の朝、ヨドバシカメラでネットでこの2冊を(書籍としては初めて)購入をした・・3%のポイントが付く・・のですが、15:00前に早くもうち1冊である表記の方が届いたのでさっそく取り上げることにしました。
現在進行中のシリーズと並行して書き綴っていくつもりです。
(こんな調子じゃ、本屋がどんどんつぶれるわけです。
なお、ダイシン百貨店に行った折、同百貨店がドンキホーテに身売りした結果なくなってしまうことが分かったのですが、同百貨店は、私の前住所に近い場所から、現在の大森駅付近の場所に数年前に移ったものであるところ、前住所の頃からご縁があったので、時代の変遷に感慨を覚えました。
宣伝に応え、同百貨店のポイントカードを、行列に並んでドンキホーテのプリペイドカードに切り替え、サービスの1000ポイントをゲットしてきました。)
さて、入江曜子『古代東アジアの女帝』です。
彼女(1935年~)の経歴を見ると、「慶應義塾大学文学部卒業。1989年『我が名はエリザベス』で新田次郎文学賞を受賞。本名は春名殷子。夫は作家の春名徹。・・・春名と共訳したジョンストン『紫禁城の黄昏』は、満洲侵略を日本の悪とするには、都合の悪いいくつかの部分を省略した訳書と批判された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E6%9B%9C%E5%AD%90
というわけで、彼女、歴史学者でもなく、いわくつきの訳本・・私も持っているが、彼女のことは全く記憶に残っていない・・を出したこともある、というので、がっかりしました。
しかし、いざこの本を読み始めてみると、結構面白く感じたので、予定通り、シリーズに仕立てることにした次第です。
2 入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む
「推古<(注1)>は7世紀に先立つ西暦592年、ヤマトで最初の、そして東アジア最初の女帝大王(おおきみ)、いわゆる「女帝」となった。
(注1)554~628年。天皇:593~628年。「欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。・・・
18歳<で>・・・異母兄・・・渟中倉太玉敷天皇(・・・敏達天皇)皇后となり、・・・敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら二男五女をもうけた。
用明元年(586年)夏5月、<亡くなった>敏達天皇の殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。その後、皇后は<異母兄の>穴穂部皇子<・・但し、推古の母と穴穂部皇子の母とは同父で同母の姉妹・・>との関係を強要された。・・・
祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった<彼>女が、馬子に請われて・・・即位した。時に彼女は39歳で、<日本>史上初の女帝となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒この冒頭のセンテンスに私はしびれたのですが、単に、「横田健一(著)『古代王権と女性たち』、吉川弘文館、1996年1月発行22頁引用ー『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』」(上掲)の受け売り・・いや、この入江の本のテーマがそもそも横田の指摘の受け売り・・でしたね。
改めて気付くのは、当時の、天皇家や大豪族の間では、また、恐らく庶民の間でも、少なくとも異母であれば、兄弟姉妹間の婚姻など常態であるくらい、性的関係にタブーが少なかった、ということです。(太田)
『日本書紀』<は、>・・・推古<は、>・・・輝くような美貌のうえに、その政治姿勢も王道にかなって立派である、と讃えている。」(2)
⇒美人で頭が良かったというのですから、推古の異母兄同士で彼女の取り合いが生じたのも当然ですね。(太田)
「<592年>の冬・・・馬子は「投獄(あずま)の調(みつぎ)をたてまつる」という口実で群臣を集め、その衆人環視のなかで崇峻<(注2)>を殺害した。」(8)
(注2)553~592年。天皇:587~592年。「敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。・・・
大臣の蘇我馬子によって推薦され<天皇に>即位した。一方大連の物部守屋は、<崇峻の同父で同母の弟である>穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。・・・
猪を献上する者があった<際、崇峻>天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し<崇峻を殺害させた。>
<日本で>臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。・・・「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性<が>指摘<され>ている。・・・
<但し>、配流先からの逃亡に失敗した直後に急逝した淳仁天皇<(コラム#7355、8297)>や毒殺の疑いのある孝明天皇<(コラム#451、3069、3111、4717、6306、7169、8190、8297、8300)>の例が未確定である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
⇒「日本じゃ、元首殺しが一度も起こらなかった」(コラム#8349)という趣旨のことをこれまで何度か記してきたけれど、日本でも、少なくとも一例、あったのですね。
ここで訂正させていただきます。
それにしても、読者が誰もこの誤りを指摘してくれなかったとは・・。
とまれ、推古は、彼女が強制的に愛人にされたところの彼女の異母兄、及び、彼女のもう一人の異母兄たる崇峻天皇、の二人が、次々に、彼女の叔父によって殺害された結果、天皇に即位する運びになった、というわけです。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その1)
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